閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

321 ペンS(オリンパス)

 小説家はそのデヴュー作にすべてが隠されてゐるといふ説がある。分析をしたわけではないが、割りと正しいのではないかと思ふ。

 カメラに同じ見立てが成り立つかと云へば、それは怪しい。小説が原則として個人の作業なのに対し、カメラ造りは集団の仕事だからで、突出した個人が全体をどうかうするのは、創業社長が技術者でもない限り、余程困難と想像するのは容易である。

 勿論幾人かの例外はある。ヴィクター・ハッセルブラードや吉野善三郎、或はオスカー・バルナックの名前を挙げれば、納得してもらへるのではないか。そしてその系譜のおそらく一ばん最後のページに、米谷美久の名前を書き込んで、どこからも異論は出ないにちがひない。

 ペンが生れた経緯は神話めいた有名さだから、ここではいちいち触れない。併し累計で八百万台だかを賣りあげたのだから、米谷の設計…きらひな言葉を使へば“コンセプト”…がきはめて優れてゐたからで、凄いデヴュー作(小説家で云へば超大型新人)であつたとは、云つておきたい。

 そこでペンSに話を移すと、これは歴代ペンの二代目にあたる。初代ペンがおそらく制約…六千円で賣れるカメラといふ條件…で出來なかつた点を、本來の形に戻したと思はれる機種で、機能や構造から云ふと、これがペンの完成形ではなからうか。

 別に高級なカメラではない。ペンSに限らず、ペンFも含め、すべてのペンは(所謂)中級機か普及機であつた。このくらゐの機種に高級感や質感を認めるひとは、現代のカメラしか知らないからで、その現代カメラのスタイリングが如何に痩せてゐるかを、間接的に證明してゐるとも云つていい。

 尤もさういふ勘違ひは兎も角、ペンSが優れたカメラであつたのは間違ひない。どこにお金を掛けるべきか。どこの費用を削ればいいか。それらをどう纏めるかを米谷美久ひとりで成したのは、カメラ設計史上の奇観といつていい。オスカー・バルナックはライカの原型を造つた偉大な技術者だつたけれど、レンズまでは目を向けられなかつた。記憶を頼りに云ふと、ウル・ライカのレンズはツァイスのそれを転用した筈である。

 もうひとつ、意外に知られてゐなささうだが、ペン(S)にはアクセサリが幾つも用意されてゐる。フヰルタやフード、フラッシュ撮影用の機器、複寫用の脚まであつた。その気になれば、ペンSですべての撮影をまかなふのも不可能ではなからうと思へて、ミノックスが連想される。もしかするとこのカメラがアマチュア向けといふのは世を忍ぶ仮の姿だつたのだらうか。

320 つまみが要る

 麦酒を呑むには、つまみが要る。

 お酒でも葡萄酒でも泡盛でも焼酎でも事情は同じで、例外にしていいのはヰスキィくらゐとも思ふが、ここは麦酒に限つておく。

 蒸し暑いのだから、かまはないでせう。

 麦酒は懐の深い飲みものだから、大体の食べものは適ふ。かう云ふとチョコレイトやらキャンディやらクリームを持出すひとが出てきさうだが、面白がりならまつたく的外れだし、眞顔なら下戸に決つてゐる。詰り無視しても差支へない。

 併し本当か知ら。我われが考へるのはきつと本の麦酒であつて、獨逸や白耳義の麦酒に、その懐があるのかどうかは解らない。ソーセイジや馬鈴薯にはきつと似合ふとして、ビーフ・ストロガノフやシャシリューク青椒肉絲のお供にゲルマン・ビアがしつくりくるものかどうか。

 さう云へば古代の埃及にも、麦酒はあつたさうですな。下層民の飲みものであつたといふ。ピラミッド建設に携つた労働者が、一日の仕事終りに引つ掛けたのだらう。何をつまんだのだらうね。四千数百年前の埃及は、現在のやうな荒地ではなかつた筈(でないと大文明は成り立たない)である。無醗酵の麺麭に焼いた羊肉でもつまみながら、工事管理者の愚痴やら文句やら、云ひあつたのだらうと思ふと、何となく親しみが感じられる。

 残念ながら埃及工夫と盃だかを酌み交す機会は訪れないし、何かの間違ひでそれを得たとして、下級公務員の愚痴を聞かされてもこまるから、親しみは親しみのままにしておかう。

 話は日本で呑む麦酒に絞りますよ。我が國でもゲルマンやベルガエのビアくらゐ、呑めますよと云はれさうだが、また白耳義の小麦麦酒は中々美味くもあるが、さうではなく、東名阪は勿論、札幌や仙台、新潟から金澤、倉敷から広島、博多を経て那覇に到る円弧を描く列島で呑む麦酒、の意味である。

 一体日本が妙だと思ふのは、規模がある程度の都市なら、世界各國の料理を食べるのに然程の不便を生じない。中華に伊太利、佛蘭西は云ふに及ばず、西班牙や土耳古に印度、我らが獨逸や白耳義も例外ではない。こんな都市を抱へる國は外にあるのか知ら。その辺の考察はさて措き、東都に住んでゐると、タコスと麻婆豆腐とピロシキをひとつ卓に呑める。さういふ場所には必ず麦酒があつて、コロナや青島だけでなく、アサヒやキリンも用意されてゐるのが常といつていい。何故か。深い詮索は避けるとして

 ・麦酒が(日本では)新参の酒精であつたこと。

 ・参入の時期はまた、食事の変化…激変とも重なつてゐたこと。

 ・従つてその味はひは、意図の有無を問はず、最初から中庸が望ましかつたこと。

の三点は指摘しておきたい。だから卓にあるのがカリー・ブルストやザワー・クラウトは勿論、タンドリー・チキンでもロースト・ビーフでもウィンナ・シュニッツェルでも、酢豚や回鍋肉でも、日本の麦酒があれば酒席は成り立つ(一応かも知れないのは認めておかう)ので、これは大したことだと云つて、誤りにはならないと思ふ。

 併し大したことなのは長所として、短所がないとは云へない。我が國の麦酒には、これとなら万全といふつまみが無い。どれと組合せても、合格点は叩き出すけれど、他の追随を許さないところまでは辿り着くのは六づかしい。わたしのささやかな体験で例外と呼べるのは、沖縄でのポーク玉子とオリオン・ビールの組合せで、鹿児島での黒豚とキリンでは、さうと云ひにくい。薩摩人と黒豚養豚のひととキリンのひとに叱られてはこまるから、急いで念を押すと、それらが劣るのではなく、きつと美味いのは疑ふ余地はない。沖縄オリオンポーク玉子に較べて、(まことに残念だが)決定力に欠けると云ひたいんである。とは云へ、日本麦酒の中庸性を考へるに、沖縄オリオンポーク玉子の組合せは特殊に過ぎる。もつと一般的といふか、漠然と“麦酒を呑むなら食べたいもの”で、何か有力なつまみは見当らないものだらうか。

 たとへば鯖の塩焼き…寧ろごはんとお味噌汁が慾しくなつてくるなあ。

 或は鯵フライ…惡くはないが、何がなんでもとまでは思へない。

 コロッケ…ある時期、えらく嵌り込んだが、おやつですな、本來は。

 もつ煮こみ…これは中々宜しいのだが、酎ハイやホッピーの方が似合ふ。

 なんだ目星すらつけてゐないのかと呆れられさうな気がしてきたが、無いわけではなく、ただあまりに当り前なので口に出しにくい。何だと云ふと鶏の唐揚げ、焼き鳥、焼き餃子の三点で、ほらね、詰らないでせう。ここに茹ででも焼きでもソーセイジを追加して、“麦酒のつまみ撰手権”でベスト・エイトの半分が決つたと云つても、非難される心配はまあ無いでせう。詰るか詰らないかは兎も角、わたしは捻ね者を気取る(厭みですよ、ああいふ態度は)積りはないから、かうなつて仕舞ふ。また鶏の唐揚げと焼き鳥と焼き餃子(贅沢を云へばそこにソーセイジにザワークラウトがあれば)、麦酒を囲む酒席の基本形が完成するのは事實でもありませう。何とも上品さに欠けるつまみではあるが、麦酒自体が一日の烈しい労働の後、胃の腑に落し込む飲みものだから仕方がない。それにこれなら、ゲルマン人とベルガエ人を招いても、愉快な席となるにちがひない。

 さう考へたら、一応の満足は感じられた。それでは唐揚げをつまみに、罐麦酒を一本、呑むと致しませうか。

319 正しいおにぎり

 コンヴィニエンス・ストアでは種々のおにぎりが賣られてゐて、それを眺めるのは密かな樂しみでもある。尤もわたしが買ふのは、ごくありきたりのおにぎりで、性分と云ふ外にない。ではそのありきたりは何かと訊かれるだらうか。

 梅干し。

 昆布の佃煮。

 おかか

 鮭。

 まあこんなところ。偶に高菜漬けなんぞの混ぜごはんや、おこはも買ふが、その程度であつて、保守的な態度か単に臆病なのかの判定は、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に委ねたい。その態度はどこに原因があるのだらう。などと疑問に思ふまでもなく、祖父母と同居だつた幼少時の経験である。祖母はどうも躰の丈夫ではない孫が可愛かつたらしい。一ぺんも叱られた記憶がないのだから、疑念はない。甘やかしではない無條件の愛情を注がれたのは、幼いわたしにとつて幸せであつた。

 少年丸太に祖母が作つてくれた食べもののひとつがおにぎりで、いや何か特別に豪華だつたわけではありません。小さな俵型に味つけ海苔を巻いたやつがお皿に数個。外には何だつたらう。お味噌汁や鰈の煮つけでなければ、玉子焼きくらゐではなかつたか。旨かつた。美食などといふ厭らしい言葉が入り込む余地のないうまさで、わたしの場合、おにぎりがその代表格なんである。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にもさういふ味、記憶をお持ちにちがひない。

 話をおにぎりに絞りませう。改めて云ふのも何だが、ごはんの器は深い。お茶碗ではありませんよ。その辺のコンヴィニエンス・ストアやマーケットで賣られてゐるお惣菜なら、殆どすべてがおかずになる。さう考へると、殆どすべてのおかずはおにぎりの種になると推察出來る。俵型または筒型或は三角に纏めるといふ條件が、たとへば卵かけごはんの“おにぎり化”(いや十年くらゐ前、一ぺん試した。ひどく食べにくかつた。麦とろめしのおにぎりは見たことがない)を阻んだりはするけれども、ささやかな例外には目を瞑つてもかまはないだらう。

 そんな風に考へを進めると、変り種のおにぎりが次々に出てくる理由も、オーソドックス乃至クラッシックな種、いや具と呼ぶ方がいいのか、そこは措くとして、そちらが堂々と生き残る理由も解つてくる。おにぎりはいはばベテランのプロレスラーである。若手の何とかのマヨネィーズ和へ撰手やかんとかの照焼き撰手が相手でも、ちやんと試合を組立てられる。梅干し撰手やおかか撰手との絡みなら、前座でもメインイベントでも、間違ひないといふ安心感がある。この安心感…安定感と云つてもいいのだが…は、ごはんを長年食べ續けてきた我らのご先祖が磨き上げた組合せだから成り立つので、詰り伝統の強さと云へる。

 ここでおにぎりは本來、家の外での簡便な食事であつたことを、我われは思ひ出したい。おにぎり史を遡る余裕は無いけれども、現代の我われにとつて身近な外食はお弁当の筈で、お弁当といへば矢張り驛弁であらう。さうでないひとだつてゐるのは認めるとして、わたしはさうなのだから仕方がない。そこで驛弁を遡ると、元祖は諸説紛々であつて、通説は明治十八年七月十六日、宇都宮驛前の旅館[白木屋]が賣り出したのを嚆矢としてゐる。梅干し入りのおにぎり二個(三角形。胡麻塩を振掛けてある)に二切れのたくわんを竹の皮に包んで金五銭也。日付がはつきりしてゐるのは、大宮から宇都宮まで鐵道が延伸された(上野宇都宮間の開通でもある)からである。[白木屋]旅館の主は斎藤嘉平といふひとださうで、中々抜け目の無い商ひですな。その五銭が今ではどれくらゐなのか、物価の比較は六づかしいから、見当はつかないけれど、兵隊相手の商賣を目論んだ気配が感じられる。所謂ぼつたくり値段ではなかつたらう。

 さて。かう書いてから理窟をすつ飛ばすと、この明治十八年は宇都宮の驛弁が、近代…訂正、コンビニおにぎりの原型ではなからうか。

 自分でにぎる。

 母親や妻ににぎつてもらふ。

 息子と娘ににぎつて持たす。

 要は家で用意するのがおにぎりの筈で、兵隊さんもまさか旅館のおやぢが用意した(まさか斎藤さんが直々ににぎつたわけでもなからうが)おにぎりに、財布から五銭を取り出すとは考へもしなかつただらう。我われが幼い頃、水やお茶がペットボトルで賣られる様子を想像しなかつたのと同じである。わたしが一ばん驚いたのはカルピスウォーター。これが原液と水の正しい割合ひなのかと教へられた気分だつたが、明治の兵隊さんも、宇都宮からの列車内で、これが正しいおにぎりなのかと考へたかも知れない。いやもしかすると、舌に馴染まない味を飲み下しながら、少年の頃に頬張つたおにぎりを懐かしんだだらうか。そのどちらだつたとしても気分は解る。コンヴィニエンス・ストアのおにぎりだつて、梅干しでも昆布でも決してまづくない。煮玉子だらうが照焼きだらうがソーセイジだらうが惡いとは云ひにくい(實を云ふと、安賣りの際に買ふこともある)併し当り前だけれど、記憶の彼方に残つてゐる祖母の小さな俵型に味つけ海苔のおにぎりには、矢張り及ばない。わたしにとつてはあれこそが、おにぎりの正しい姿であつた。きつともう何年か経てば、あちらでまた、土曜日の午后に頬張れるから、樂しみにしてゐるのだが、祖母からは慌てンでもええからねと、窘められるかも知れない。

318 Ig Nobel

 平成十七年の栄養學賞は、『三十四年間、自分の食事を写真に撮影し、食べた物が脳の働きや体調に与へる影響を分析したこと』に対して、中松義郎に与へられた。平成十七年から遡つて三十四年前といへば昭和四十六年。そこから三百六十五日、規則正しい一日三食を續けたとして、三万七千二百三十食。一食一枚としても、三十六枚撮りのフヰルムに換算して千三十六本にもなる。大した量ですなあ。尤も受賞理由は、分析の手法や結果に触れてゐない。当り前と云へば当り前で、この栄養學賞はイグノーベル賞の話である。

 ここでちよつと解説。イグノーベル賞は平成三年に創設された、“人々を笑はせ、そして考へさせる業績”に対して贈られる賞。綴りはIg Nobelで、Igは否定的な意味を示す接頭辞。“下等、下品、見下げた”といふ意味のignobleも掛けた造語である。ノーベル賞を揶揄つてゐるのは指摘するまでもない。序でながら、平成十四年の“バウリンガル(平和賞)”から、同三十一年の“座位で行ふ大腸内視鏡検査―自ら試してわかつた教訓(医學教育賞)”まで毎年、日本人からは毎年受賞者が出てもゐる。

 ではその受賞は名誉なのかどうか。たとへば平成二十九年の物理學賞は、マルク=アントワン・ファルダンの『猫は容器の形状に合せて液体のやうに形を変へることについて』でそれは“固体とも液体ともつかない猫の振舞ひに注目し「流動体」として物理学的に分析した結果、老ひた猫の方が子猫より流動性が高いことが判明した”ことに与へられた。“老ひた猫の方が流動性が高い”と聞けば確かにははあと思ふし、馴染みの呑み屋で自慢したくもなるが、そこから先に進むかといへば、どうも怪しい。それとも笑ひはしたし、ははあとも思つたのだから、賞の目的は達せらたのかも知れない。名誉かどうかは兎も角、かういふ性格の賞だもの、食事の寫眞を撮り續けた行為を讚へるくらゐ、何でもなからう。

 寫眞があるかどうかは別として、池波正太郎も三年だか五年だかの連用日記に、朝晝晩の食事を克明に記録したといふ。夫人がその日の献立に迷つた時は、たちどころに去年はこれ、その前はかうだつたと示したさうで、便利だつたらうな。ただ池波は家人に見られることも意識してゐて、まづいものが出ると、これぢやあやる気も起らないなんて書きつけもしたといふから、便利の反面、腹立たしくもあつただらう。小説家の奥さんはたいへんだよ。別の某作家乃至學者(残念ながら名前を失念して仕舞つた)も矢張り、食事を記録してゐて、ある年に何をどれくらゐ食べたか、統計的な一覧(秋刀魚何尾とか蕎麦何枚とか)を作つたのを見た記憶がある。“脳の働きや体調”への影響は解らないが一年分の量なので、甚だガルガンチュワ的に感じられるのがいい。

 實はわたしも書いてゐる。手帖に、簡単に。余程うまかつたか、口に適はなかつたらそれも記すが、大体はまあ簡単に書くだけである。令和元年の時点で五年分以上は残つてゐる筈で、あと何年分かも記すことになるだらうが、それが好事家の役に立つかどうかは、こちらが死んでから好きにしてくれ玉へ。それでわたしのこの習慣は前述した池波の眞似である。影響されたかも知れないではなく、眞似をすると決めて真似た。胸を張ることではないよと云はれさうで、またその指摘は正しくもあるから、こちらは頭を下げませう。とは云へ眞似が駄目なわけではなし、すつかり習慣にもなつてゐる。

 そこでひとつ余談。司馬遼太郎が優れた小説家なのは云ふまでもないが、飲食の描寫だけは丸で駄目なひとだつた。『街道をゆく』で國内に限らず、モンゴルや中國、欧州にまで足を運んでゐるのに、土地の煮炊きもの、焼きものに揚げもの蒸しもの漬けもの、獸肉や魚介、野菜に果物を歓んだ気配すら感じられない(精々が國道沿ひの蕎麦屋かサービスエリアのとんかつ定食くらゐ)のは寧ろ奇観とするべきか。あの小説家が生涯に採つたであらう膨大なメモの中に、飲食の嬉しさや酒席の愉快はきつと、ただの一行も記されてゐないにちがひない。同年の池波正太郎(ふたりとも大正十二年生れ)と何が異なつたのだらう。余談終り。

 話を戻しますよ。

 文字でも寫眞でも、飲食を記録する理由は何だらう。中松のやうに“脳の働きや体調”への影響を調べたいからか。わたしはさうではない。池波のやうに細君へ献立の助言をする為か。残念ながらさうでもない。習慣に理由は無いものと居直つて、それでも習慣になる前の切つ掛けは何だつたのかとの疑問は残る。池波にあくがれた(随筆に限れば今讀むと、時に魯山人風の厭みを感じて、少々こまる)のは間違ひない。ただそれだとわたしがあくがれたのは、鬼の平藏でも秋山の老先生でも梅安さんでもないことになる。具合が惡い。それ以前に日記をつけてゐた時期があつた。日記といつたつて、毎日何か書けるわけではないのは、小學生を悩ます夏休みの絵日記帖と事情は変らない。そこに池波の随筆を讀んで、飛びついた可能性は十分に考へられる。変化に乏しいと感じられる日々であつても、朝は珈琲とトーストとうで玉子、晝はざる蕎麦、晩に罐麦酒、ご飯にお味噌汁に白菜漬けに塩鮭と、決つてゐるわけではない。珈琲が紅茶に、うで玉子がハムエッグスに、ざる蕎麦が天麩羅饂飩に、お味噌汁が豚汁に、白菜漬けがたくわんに、塩鮭が揚げ鶏に、或はもつと大きな変化(たとへば葡萄酒と牛肉とチーズ)があるかも知れず、大きくはなかつたとしても、三百六十五日、まつたく同じになる筈はない。同じになつたとしてもそれはそれで面白いぢやあないですか。

 と。ここまで書いて棚の奥に処分してゐない手帖や日記が見つかつた。残つてゐる一ばん古いのは平成十年だが、飲食の定期的な記録だと平成二十一年四月一日(水曜日)が遡れる限界である。当日の天候は“曇。小雨。夜に大雨”だつたらしい。朝は牛乳入り珈琲とソイジョイ。晝は仕出し弁当とある。事務所でお弁当を註文してゐたのだらう。おかずはハムカツ、カレー、オムレット、サラド等で、“カレーのルウだけを用意するのはアレ”ではないかと文句をつけてゐる。晩はカップ麺(サッポロ一番醤油味)に温泉卵。おにぎり(昆布と梅と鰹。どうやらセブンイレブンで買つたらしい)それからスパークリング・ポップの五百ミリリットル罐ださうで、手を抜くにしてもほどがある。帰宅が遅くなつたからか、大雨で面倒になつた所為かは、はつきりしない。併し前段で、“好事家の役に立つかどうかは、こちらが死んでから好きにしてくれ玉へ”とえらさうに書いたけれど、この程度の記述では、好事家諸氏の役に立つものかどうか。どうもこれでイグノーベル賞を狙ふには無理がある。

317 不純酒精交遊

 イズムといふ言葉がある。マルクシズムをマルクス主義と訳した時の、主義にあたります。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏なら既にご存知のとほりでせう。ところでこのイズムにはもうひとつの意味合ひがあつてそれは中毒。アルコーリズムならアルコール主義ではなくアルコール中毒。今ではアルコール依存と呼ぶのかな。マルクシズムならマルクス中毒になつて…こつちの方が収まりがいいと書けば、たれかに叱られるかも知れないが、 マルクスにもマルクス主義にも縁が無く、また興味も持たない男(わたしのことである)にその辺の想像は六づかしい。

 母親方の大伯父…松原の小父ちやん(ヲツチヤンと訓んでもらひたい)と呼んでゐた…がアルコーリズムのひと、簡単に云へばアル中だつた。年に一ぺんか二へんくらゐしか顔をあはせる機会はなかつたけれど、いつも背広をきちんと着て、ループタイをぶら下げて、大胡座をかいてゐた。目の前には必ず一升壜とコップがあつて、先づぱんと栓を抜く。お酒をコップに注ぐ。栓をぽんとしめてからそのコップを目の前に持上げる。かろく目礼をして、すーつと飲み干す。飲み干したコップを置く。暫く世間話をしてから、また一升壜の栓をぱんと抜く。がぶがぶでもぐいぐいでもなく、またすーつと飲み干す。それが延々と續く。松原の小父ちやんの呑みつぷりを意識して見たのは数回程度が精々の筈なのに、記憶が鮮明なのは、乱れの無い呑みつぷりが美事に思へたからで、まだわたしはお酒の味を知らなかつた。

 後年『深夜プラス1』といふ小説の、主人公が相棒(アル中のガンマン)を、べろべろにならなくてもいい、延々と呑み續けて、その内使ひものにならなくなると評する場面を讀んで、何の疑念も抱かなかつたのは、松原の小父ちやんを見てゐたからだらう。讀書にも経験が有効な場合があるといふ、ささやかな實例である。もうひとつ、小説中のガンマン(ハーヴェイ・ロヴェル)と現實の大伯父には、時間帯を撰ばなかつた点が共通してゐた。家庭内の小父ちやんがどんな暮しぶりだつたか知る由もないが、起きてゐる間ぢゆう、すーつと飲み干し續けてゐたのだらう。連れ合ひ(百合ばつちやん)がどんな顔をしてゐたのか。当り前に考へるとえらい目にあつた筈だし、その点は深く同情もしたいのだが、小父ちやんには零歳児の当時、大枚五百円(半世紀前の五百円!)のお年玉をもらつた恩義もある。百合ばつちやんには申し訳ないが、こちらの態度は少々あまくなつて仕舞ふ。

 お酒の味を知つたのはいつ頃だつただらう。どうもはつきりとしない。それにこの場合の“知る”は中々六づかしい。飲み出した時期であれば、三十歳になる前で間違ひない。ただそれは単に呑み始めただけのことで、好ききらひ以前に、おれはお酒も嗜めるんだといふ見栄の要素が大きかつた。口に適ふかどうかとか、味はひのちがひとか、そこまで(せめて)感じられる程度になつた時期を“知る”だとすれば、あまく見てもこの十五年くらゐであらう…いや未ダ知ルニ足ラズやも知れない。謙虚ではなく(待てよ、さういふ一面もあるか知ら)、何とはなしにでも味はひが解つてくると、矢張り何とはなしに、その奥行きが感じられてもくる。詰り経験を重ねる(この場合は呑む)につれ、知つてゐるぞ解るぞとは云ひにくくなつて…いやはや、日暮れて道遠しとはこのことですなあ。

 それで思ひ出した。呑む…お酒に限らず、麦酒でも葡萄酒でも焼酎でも泡盛でもヰスキィでも…のは日が暮れてからが原則の筈である。松原の小父ちやんに逆らふやうで残念ではあるが、その程度の区切りの感覚は持合せてある。尤も日暮れでは時節で大きく動く。冬至夏至で呑み始めがずれるのは有り難くない。そこで一応の目安はつける方が望ましいことになつて、私の場合は午后五時をそれにしてゐる。念を押すと午后五時は“一応の目安”であつて、たとへば旅行なら朝から罐麦酒を開けるのも躊躇ひは感じない。朝の特別急行列車に乗り込み、幕の内弁当やサンドウィッチをつまみに呑むのは寧ろ、我慢するのが六づかしいくらゐである。阿房列車を何本も走らせた内田百閒には叱られるかも知れないが、先生だつて特別急行列車に乗る前、驛の食堂でヰスキィをば一盞舐めていい気分になつてをられたのだから、渋い顔をされても誤魔化せるだらう。

 成る程確かに朝酒や晝酒はうまい。併しうまいと思へるのが当り前だと云ふのはどうやら不正確らしい。ハーヴェイ・ロヴェルは味が解らないと嘆いてゐる。あの哀れなガンマンは、時間に関係なく呑むけれども、それはアルコールを体内に入れてゐるだけで、醉ひは寧ろ化学反応の一種に近くなつて仕舞つてゐる。だからかれが本当に美味いマティーニの作り方を思ひ出して語る場面は、胸を衝かれる感じがする。松原の小父ちやんもさうだつたのかと思つたが、記憶にあるのは如何にも旨さうな顔だから、朝酒も晝酒も愉しんだにちがひない。百合ばつちやんは困つたらうが、恰好いいガンマンより、こつちの方がいいや。

 とは云ふものの、何ごともない日の朝から、ちよいと一ぱい呑まうかとは中々思へない。寝起きが惡いので、朝のわたしは大体のところ不機嫌でもある。また起きた直ぐ後は空腹を感じない。不機嫌でも空腹でなくても呑めはするだらうが、さういふ腹にアルコールを落とすと、惡醉ひするだらうとは疑ひの余地がない。夜の酒席でさうなつた経験から云ふのである。だから旅行なんぞの切つ掛け…詰り不機嫌な朝でもない限り、朝は呑まない。晝は時々呑みたくなる。もつと時々は實際に呑みもする。殆どは麦酒。定食のおかずが明らかに麦酒を呼んでゐることがあるでせう。さういふ場合に呑む。もつと稀に、蕎麦屋で板わさを肴に呑むこともある。これはお酒でないと締まらない。惡くないですよ。自分の駄目つぷりも肴になる。午后五時の原則はどこにいつたと云はれさうだが、原則は原則である。例外は認められて然るべきでありませう。

 かう書くと早合点な我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、ははあ丸太は松原の小父ちやんやハーヴェイ・ロヴェルには及ばないにしても、アル中なのだなと思ふかも知れないが、それはちがふ。では何を根拠にちがふと断言するのだと追撃される筈で、本当の呑み助は肴を必要としない。海苔やハムの切れ端、もしかするとひと摘みの塩か小指の先の胡椒でも呑める…呑み續けられるのがアル中(の少なくとも資格)で、わたしはそんな呑み方をしない。いや“しない”なのでなく、“出來ない”のが正しい。呑むなら断然つまみが慾しいし、さうでなければ呑みたくない、といふより呑めない。野暮だなあと思ふならそれでかまはないが、世の中の酒精の殆どすべては、食べながら呑んで旨くなる仕掛けになつてゐるんですよと、ささやかな反論(酒造所の見學で常々感じる不満は、自慢の銘柄にあはせるつまみを用意してゐないことだ)はしておきたい。それだと純然とした味はひが解らないだらうと云はれるだらうか。併し不純な方が旨いのなら(實際うまいと思ふ)、そつちを撰ぶのが人情の筈だし、わたしは断乎としてそちらに与する。不純酒精交遊、上等ですよと云ふと、少々品下れるけれども。

 それはさうと、つまみと共にお酒を愉しまうとする態度を、何イズムと呼べばいいのか知ら。