閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

326 旅行に持つてゆくカメラ

 ここでいふ旅行は一泊乃至それ以上の期間を考へてゐる。何とかバスで行く温泉と打ち立て蕎麦を樂しむ日帰りツアーは含まれてゐない。また撮影自体が目的の旅行も考慮してゐない。旨いものを食べに行くとか、佳いお酒を味はふとか、そんな目的の旅行なのでその辺は念の為。

 矢張りライカM6に限る。

 何と云つてもα‐7Ⅲが最強。

 と最初から決つてゐるなら、こちらとしても文句はない。好きになさい。替へのパンツやスマートフォン用の充電器や、そんなこんなで荷物があつて、その中にカメラを含めたい場合、どうすればいいのか知らといふことを考へたいんである。

 数年くらゐ前なら、コンパクト・デジタル・カメラがあつた。既にスマートフォンのカメラ機能にほぼ駆逐されきつてゐる。残つてゐるのは十万円もする高額機で、そんなお金があれば、旅行そのものを贅沢にする方が余程いい。勿論お財布に余裕があれば、RX100ⅥでもGRⅢでも、撰び放題だけれど。

 視線を中古のコンパクト・デジタル・カメラに移すと、数千円から一万円程度で買へるだらう。併し五年以上前のコンパクト機に遣ふなら、旅行先の食事に充てるのが賢明だらう。だつたらスマートフォンでいいかと云ひたくなつてくるが、そこまで思ひ切りもつかない。何といふ優柔不断。

 忘れるところだつた、旅行に持ち出すカメラに望ましい條件とは何だらうか。

 小さい。

 かるい。

 操作が簡便。

 広角から望遠まで使へる。

 近寄つても撮れる。

 電池の保ちがよい。

 音が静か。

 廉価な入手が可能。

 まあ当り前の要素ですよ。旅行先のたれかに自慢出來るとか、可愛らしい異性の気を惹けるだらうとか、酒場で話の種になりさうとか、そんな條件があつても不思議ではないが、その方向はわたしの手に余るので、これは触れない。

 上に挙げた要件を満たすとすれば、矢張り小振りでズーム・レンズを搭載した機種となる。廉価の條件を除けば、現行機で云ふとRX100系か、パナソニックのTXまたはLX系になるだらう。いづれもスタイリングが気に入らないけれども。

 旧くてもかまはないと云ふなら、ペンタックスMX‐1やリコーGX200辺りを考へる方法も無くはないが、姿が特別気に入りでもない限り、お奨めはし難い。何があるやら判らない旅行先で、動作の鈍いカメラは使ひたくない事情もある。

 どうも手詰りの感じがしてきたが、この手詰り感は、コンパクト機に目を向けたからである。既に終つたペンタックスQやニコン1なら、機種次第で中古でまづまづ廉な入手が出來る。流石にそれはちよつとと思ふなら、マイクロフォーサーズを撰ぶ方法もある。現行機はオリンパスのE‐PL9を除くと無駄に大きいか、不必要に小さいから、中古も検討するのがいい。うまく撰べば標準ズーム・レンズとあはせても、三万円でお釣りが出るだらう。この辺りなら、持ち出すのに大きな負担を感じはしない筈で、景色に名所に名物料理、それから偶々見掛けた美女を撮るのにも不足しない。

325 EOS1000QD(キヤノン)

 初めて自分のお金で買つたのが、EOS1000であつた。友人が先に手に入れ

「面白いから、お前さんも、どうだ」

と誘つてきたのである。併し何を買つていいか、さつぱり判らないから、その友人にカメラ屋までついてきてもらつた。

 目に入つたのが、ミノルタのα‐3xiとこのカメラで、散々に迷つてEOSにした。性能のちがひやスタイルの差異が理由ではなく、友人が使つてゐるんだから、きつと便利だらうと思つたのである。EF35‐80ミリが一緒になつて、さあ幾らだつたらう。五万円もしなかつたのは確かである。

 家に持ち帰つて、電池を入れ、レンズをつけ、シャッター・ボタンを軽く押すと、すつと焦点が合つたから驚いた。寫眞趣味を持たない家で育つたわたしが、それまでに触つたことがあるのはコニカのEEマチック・デラックスだけだつたから、オート・フォーカスの動作だけで

(ははあ。こいつは凄いなあ)

と感心して仕舞つた。無知の實例である。

 ところで面白いからとわたしを誘つた友人も、何がどう面白いのか、どうも曖昧だつたらしい。それで兎に角、撮りに行つた。中之島公園や北山植物園。教室に通ひもせず、教本を讀みもせず、撮つたのだから、いい度胸をしてゐた。

 それで撮れる。撮れはするが、はいさうですねと云ふしかない出來で、あの時周囲に批評精神に富んだ人物がゐなかつたのは、幸運だつたのかどうか。寫眞の批評は、それが一応でも寫眞になつてゐて成り立つものだから、酷評にも不足してゐたのは疑ひの余地が無い。

 かと云つて、さつさと棚に仕舞ひ込んでお終ひにならなかつたのは、寫眞の出來はどうあれ、撮るといふ行為が愉快だつたのだらう。でないとシグマの70-210ミリと400ミリは買はなかつた。三脚やカメラ・バッグも買はなかつたし、EF50ミリを追加もしなかつた。あの当時から物に頼つてゐたのだなあ。

 シャッターを切るだけで満足してゐたわたしに多少の変化をもたらしたのは、云ふまでもなく異性であつた。異性が隣にゐて、それを綺麗に撮りたいと思へなければ、カメラを使ふ意味がない。とはつきり考へたわけではないが、さういふ気分が濃厚にあつたのは間違ひない。あの当時の寫眞を見ると、まあ惡くはないなといふ気分と、文字にはしづらい気分が入り混ざる。

 かうやつて思ひ出すと、どうやらわたしは、カメラについても寫眞についても、知らないまま、カメラと寫眞で遊んでゐたらしい。それが稚拙でまた不完全であり、不徹底でもあつたとは、認めるのに吝かではない。拙劣な技術のまま、随分と遠廻りをしたのも、事實である。併し一方、その遠廻りが損ではなかつたとは、開き直りも含めて考へてゐる。さう考へる事情には、EOS1000を買つたのには、社交の一面といふ要素があつたかも知れないからで、その友人とは今も年に一ぺんは会ひ、寫眞を撮り、それから呑みに行く。

324 MZ‐5(ペンタックス)

 デジタル・カメラの惹句によくある、“タッチ・パネルで直感的な操作が可能”といふのは嘘…嘘が惡ければ誤魔化しである。画面をいちいち叩き、メニュ階層を下がるのが本当に合理的なら、フラグシップ機にダイヤルやレヴァが数多く配置される理由はどこにあるのか。

 被寫体までの適正な距離。

 適切な露光の為のシャッター速度と絞り値。

 カメラ操作の基本的な要件はこれだけで、信じられなければシート・フヰルムを使ふ大判カメラを見ればいい。

 解らなくはないが、極端でもあるなあ。

 と呟くひとでも、骨組みの部分は同意してもらへるのではないか。カメラ…ここでは一眼レフを指すのだが…の發展史は、この骨組みへの肉づけ史と考へて間違ひはなく、平成元年前後の数年間は、その肉づけが酷い状態になつてゐた。

 自動化と電子制禦。

 このふたつへの極端な偏りが原因で、αxi(ミノルタ)とZ(ペンタックス)が特に熱心であつた。ここでは後者に視点を絞りますよ。

 ペンタックス…旭光學社はZ以前から、カメラの自動化と電子化には力を注いでゐた。何しろM42ねぢマウント機にも、些か無理をして自動露光を組み込んだし、Kバヨネット・マウントに移行してからの機械制禦の一眼レフが、實はそんなに多くないことからも、熱中の具合が想像出來る。

 自動化と電子化は、技術の正しいあり方で、また使ひ方でもある。

 無邪気と云へば無邪気、時代と云へば時代。さう微笑んでも赦されるだらう。ただ一眼レフが成熟した時期に到つても、その考へ方で開發を續けたから、悲惨なことになつた。無闇に巨大な筐体には何とか目を瞑つたとしても、取扱説明書を持ち歩かないと使ひにくい操作系になつたのは、どうにも弁護が出來かねる。

 その反省だか反動、或は揺り戻しの結果がMZ‐5であつた。プラスチックの筐体は如何にも安つぽいし、特徴的なスタイルでもない。贔屓目に同社のMXを現代風に焼直した感じ…と云ふのは褒めすぎか。但し旧式機を模しただけあつて、操作は非常に判り易い。冒頭に挙げた基本の要件を知つてゐれば、取扱説明書を棄てても困らないだらう。

 勿論そこで、あれが出來ない、これも出來ないと不満は云へる。云へはするが、だから寫眞が撮れないわけではないし、そもそも、あれもこれもを使ふ機会がどれくらゐあるものか。“あれば便利ですよ”は“無くたつて別にかまはない”の裏返しだと、この地味な機種は證明してゐる。かういふカメラを今造るのは六づかしいのか知ら。

323 R1s(リコー)

 リコー・ファンである。理由を話し出すと切りも纏まりもなくなるので、その辺は詳しく触れない(まあさうなのだなと思つてもらへればいい)我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の中にもファンはをられるだらうが、きつと殆どはGR(デジタル)のファンではなからうか。

 そのGRはフヰルムのGR1に遡れ、GR1から更に遡つたところにあるのがR1で、R1の後継機がR1sである。ざつと三十年前のコンパクト・カメラ。リコー・レンズ30ミリを搭載し、パノラマ撮影が出來る。このパノラマは当時流行つた、天地をマスクする擬似的な代物。確か一眼レフでも、採用した機種があつたと思ふ。

 それより本体の厚みに注目したい。パトローネを入れる箇所以外は、それより薄く仕上げてあつた。曖昧な記憶なので、信用してはいけないけれど、かういふ薄いカメラの例が無かつたのは、ほぼ間違ひない。これもまた曖昧な記憶だが、初代が發表された時、その大きさ…訂正、小ささが注目されたからで、特許なのか何なのか、他社が追随しなかつたのは不思議である。

 機能としてはその頃のコンパクト・カメラとすれば当り前の程度。多点測距の動作が標準(中央一点への切替へは可能だが、電源を切ると多点測距に戻る)なのを除けば、使ひ勝手は並みの出來。寫りも同様。併し鞄の隙間にはふり込める並みの寫りのカメラが外に無かつたからか、相応に賣れたのだらう。でなければGR1に繋がることはなかつた筈で、当時の担当者は胸を張つていい。かう書くとR1sはGR1(からデジタルGR)への過渡機かと理解されさうな気がする。一面としては正しい。併しその正しさは一面でもある。

 ここでR1sには、(擬似)パノラマ撮影機構が搭載されてゐることを思ひ出して頂きたい。この機種のパノラマ機構は二段階になつてゐる。30ミリの画角でのそれがひとつ。もうひとつはワイド・パノラマと称した24ミリ画角での撮影が出來る。詰りマスクをどうにかすれば(周辺光量の落ちは兎も角)、30ミリと24ミリの二焦点レンズで使へる。實用性は別として、さういつた遊びの余地があるカメラには好感を抱けるといふものだ。

322 AF600(ニコン)

 この型番で直ぐにあのカメラねと解るひとは少ないんではないかと思ふ。通称はニコンミニ。コンパクト・カメラである。

 前々から思つてゐるのだが、ニコンは中級機普及機の作り方賣り方が、本当に下手糞な会社ですな。何が流行つてゐる、受けてゐるといふところに鈍感だし、やつと気がついて形にすると、それがどうにも間が抜けてゐる。同じ抜くなら肩肘の力を抜けばいいのに、生眞面目な態度を崩せないから、こちらとしては批判もしにくい。まあ大会社だから色々と六づかしいんだよと弁護は出來るかも知れないけれど、同じ大会社のキヤノンにはさういふ印象がうすい。尤もキヤノンの場合、時に軽薄な感じがされる。ブランド・イメージといふやつは中々六づかしいのだな、きつと。

 念の為に云ふと、ニコンの中級機普及機が全滅なのではない。EMといふ一眼レフがあつて、これはよく出來てゐた。何といふこともない絞り優先露光専用のカメラだつたが、ボディの部品配置だけでなく、フラッシュやスピードライトと組合せた時も、綺麗な姿であつた。簡易型F3とでもいへるカメラだつたが、纏り具合ではEMが勝つてゐるも知れない。手柄の大部分は両方を手掛けたジウジアーロに帰するとしても、そのスタイリングに諾といつたニコンもえらい。尤も四十年前の機種が最初に浮ぶこと自体、どんなものかなあと思へなくもない。

 そのEMから十三年後に發賣されたのがAF600…ニコンミニ。妙なカメラであつた。ニコンなのに随分と小さかつたのがひとつ。また当時のコンパクト・カメラでは当り前だつたズーム・レンズではなく、28ミリ/F3.5の単焦点レンズを採用してゐたことも挙げておかう。このレンズは嵌まるとたいへんよく寫つた。ファインダは見辛い上、ボタン類はふにやふにやと柔らかくて押しにくかつたのだが、そこは廉価な分、我慢してもいい。

 いいとして、ニコンはたれにこのカメラを買つてもらひたかつたのだらうと。プロフェッショナルやハイアマチュアのサブカメラとするには、操作系の出來が惡い。寫眞を趣味としないひとに28ミリ単焦点は使ひ勝手が宜しくない。わたしのやうなカメラ好きには面白がられるだらうが、それは少数派だつた筈である。要はマーケティングが間違つてゐたとしか思へない。ただ翌年にR1(リコー)とティアラ(富士フイルム)が似た方向の機種を出してきて、特に前者は今に到るGRの源流にもなつてゐるから、単焦点レンズを採用したコンパクトなカメラといふ考へ方は正しかつた。