閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

355 利き酒風の儀式

 利き猪口の蛇の目に映る色を見る。

 猪口を緩やかに揺つて香りを確かめる。

 口に含んで空気を通す。

 呑込みつつ鼻から息を抜く。

 といふのがお酒の利き方と聞いた記憶がある。呑込むのが本当なのかどうか判らない。本式に利き酒をするひとは何十盃何百盃を味見を求められるものだから、呑込まずに吐き出すのだらう。それで香りの抜けがどうとか、舌触りがかうとか、そんな論評をしなくてはならないにちがひない。詰らない。

 仮にそこが呑込んでもかまはない場所だとしても詰らない。それで判ることがあるとしたら、ごく微細な差異であつて、デジタル・カメラで云へば等倍の隅の解像度のちがひ程度であらう。そんな違ひが判つたとして、寫眞そのものの値うちには何の関係も無い。だから興味を持つとしても野次馬程度の関心で十分である。

 カメラとお酒を一緒にしては困りますなあと云はれるか知ら。併し利き酒会(鑑評会と呼ぶのが正しいのだらうか)の論評だつて、我われが呑む分には役に立たない。目を瞑つて慎重に含まないと判らない差異で、卓にどちらが用意されても支障は出ない。だから無意味だと云ふ積りはなく、さういふ差異が大事な商賣だつてあるだらう。可哀想な話である。

 葡萄酒の利き酒…いやテイスティングと云ふならさう呼ぶが、それでも手順は似たり寄つたりで、グラスを透かして色味を眺めるのが追加される程度であらう。その無意味さもお酒と似たり寄つたりなのは云ふまでもない。どちらにしても味はひわけるとすれば、味はひ分けが出來る程度に味を知つておく必要があつて、さういふ経験と知識を求められるのは、バーでなければちよつとした呑み屋であつて、こちらは単純に成る程なあと感心しておけばよい。

 第一、利き酒会だかテイスティングだかの論評は、何を食べるかといふ点を無視してゐるのが気に喰はない。評者はもしかすると、食べることと呑むことを峻別してゐるのかも知れないが、我われが呑む時には食べものを欠かせない。それだけ呑めば美味くても、食べものにあはしにくい味(これは一部の凝りに凝つたお酒に散見される)では困るので、たれも不満や文句が無いのか知ら。無いとすれば鈍感だし、あつても云はないのなら怠慢ではないかと思はれる。

 

 かう云つてから、ここまで散々非難した利き酒風の呑み方を、わたしもするのだと云つたら、呆れられるか、叱られるか。急いで予防線を張ると微細な味はひの違ひはさつぱり判らない。猪口やグラスをゆらゆらさしたり、匂ひを吸込んだりして、含んだ後に鹿爪らしく口をもごもごすれば、何となく味はひ分けをしてゐる気分になる。美味いものを呑んでゐる気分にもなる。どうかすると確かに味がちがふと気づけることもあつて、實際に気づくかどうかは兎も角、呑む樂しみの幅は広くなるからいい。意味の無い儀式だと云はれたらそれまでだが、その意味の無い儀式…たとへば友人と乾盃する時に、盃だかグラスだかジョッキだかをあてるのではなく、目の前でちよつと捧げる風にするのも儀式だし、相手が手酌をした時に手刀を切るやうにして徳利を持つ代りをするのも儀式で、味はひが増すとは限らないが、さうすることでおれは今呑んでゐるぞと思へるのは決して惡くない。勿論そこに鰯の丸焼きだつたり、鰻と胡瓜の酢のものだつたり、或は黒胡椒とオリーヴ油を添へたハムにチーズとクラッカーだつたり、ベーコンともつとトマトを煮込んだのだつたりがあるのは当然のことで、さういふ愉しみ方に目を瞑つた酒通にはなりたくないものである。

354 牛丼の日佛友好

 何の漫画だつたか、男が牛丼屋でめしを喰ふ場面があつた。牛丼屋で喰ふのだから勿論それは牛丼で、懐が暖かい男(本人が云ふのである)は壜麦酒を一本奢り、牛丼の具をつまみにそれを呑む。残つたごはんには紅生姜を打掛け、熱いお茶で茶漬けにして平らげる。そんな場面。

 わたしは牛丼屋で麦酒を呑んだことがなく、おそらく今後も呑まないだらうと思ふのだが、牛丼の具をつまみにするのは、惡い趣味ではなささうな気がする。それなら頭の部分だけ小皿に乗せるやつがあるのだから、そつちにしなくちやあといふ意見は出るだらうし、大体牛丼屋で麦酒を呑むこと自体、感心しないよといふ見立てもあるだらう。そんなのは食べる側の勝手で、外のお客に迷惑でなければかまはないさと反論も出來る。その辺はどうでもいい。

 幅を広げて丼ものの具を麦酒のつまみにするのはどうだらう。天丼、鰻丼、かつ丼は平気さうだが、親子丼、麻婆丼、天津丼は苦しさうである。海鮮丼は食べたくないから外してもいい…まあ前者に属するだらう。当り前で後者は種とごはんの境目が曖昧である。麦酒のつまみなのかどうか、判然としないまま、丼が空になつてしまふ。

 では天丼鰻丼かつ丼ならいいかと云へば、それはそれで微妙である。天丼鰻丼なら麦酒よりお酒が似合ふし、かつ丼はそもそも酒精を慾せず、詰り麦酒のつまみとしては格下と云つていい。尤も牛丼自体が丼界では格下であるから、それはそれで納得がゆく組合せとも云へる。

 念の為に云ふと、格下だから牛丼はまづいといふ話にはならない。廉な牛肉の更に切れ端を旨く食べる工夫が牛丼の形になつてゐるからで、松阪だの三田だの、和牛だの何だのといつた銘柄や分類と無縁であるに過ぎない。ここでたれかの本で讀んだのを勝手に解釈すると、その本では

「フランスの料理は、碌な食べものが無かつたから、どうにかして食べられるところまでしなくてはならない」

といふ必要が元にあつて發達したと書いてある。その辺で獲れる山鳥や犢や、小麦にオリーヴ、何だか解らない魚や貝を食事に仕立てるには、我が國の料理と異なる工夫や技術が求められた筈で、ここで飛躍すると、その日本的な転化が牛丼(或はもつ煮)なのではないか。パリ人やリヨン人なら肉の煮込みに葡萄酒を奢るのに、我われは麦酒なのは、そこにあるものを何とかしないと食べられなかつたのと、そこにあれば大概は殆どそのままで食べられたことの違ひで、卑下や自慢は措いて、ちがふのだなと思つておけば宜しい。

f:id:blackzampa:20190831151850j:plain

 さう考へを進めれば、牛丼(持帰り)の頭をつまみに、(安)葡萄酒をあはすのは、日佛友好のささやかな證になるかも知れない。どちらからも反發を招く恐れは否定しないとして、實際のところは試してみないと判らない。麦酒相手だと温泉卵は邪魔になるが、(安)葡萄酒だつたらその辺りも何とかなりさうに思はれる。

353 文學的なストーヴを

 何の本で讀んだか忘れたが、和歌集で夏の部に収められた歌の大半は、涼しげな口調なのだといふ。夜に吹き渡る風が快いとか、池の水面に映つた月の蔭が秋のやうだとかそんなの計りで、筆者はそれを、夏は暑くてうんざりする季節だから、歌で涼を取らうとする知恵だつたかと推察してゐた。えらく文學的な冷房装置である。ホメロス杜甫はかういふ詩を詠んだだらうか。詠まなかつたとしてもかれらの不名誉ではないけれども。

 夏の和歌を文學的冷房として使つていいなら、この手帖で寒い季節を思つても惡くはない。文學的かどうかは別に、さうすることで何だか知らないが兎に角疲弊した胃袋に、この先には愉しみがあるからと云ひきかしておけば、麦酒と酸つぱいお漬物と素麺で知足せずに済む。それで何の話かといふとおでんで、吉田健一が惡い。偶々讀み返してゐる一冊の中に“おでん屋”といふ短い文章があつて、これがまつたく迷惑なんである。

 おでん屋というのは安い酒を飲ませるところで、安い紛いものを出す場所ではない(中略)安くてうまいものにおでんがあり(中略)それ以外におでん屋が存在する理由はない。

 こんな風に書いてあつて、この本が世に出たのが昭和四十九年だから、その時代かその少し前の話といふことになる。殆ど半世紀前でも、 もしかしてこんなおでん屋が、どこかに残つてゐるかも知れないと思ふと、足元が落ち着かなくなる。詰り迷惑なので、かういふのを名文と呼ぶのはどうも悔しい。

 併し落ち着かない足元をどうにか我慢して考へれば、わたしの人生におでん屋はほぼ無縁であつた。もつと云ふと、おでんを積極的に好んだ記憶も無くて、きらひなのではないが、進んでおでんを喰はうともしたことがない。そのくせおでんといふ言葉からは、煮える鍋と湯気、その中で踊る種が芳しい香りと共に立ち上つてくるのを感じるから、不思議である。吉田の一文はその香りの輪郭を鮮やかにしてゐて、さう考へれば前言を翻して名文だと讚へるのも吝かでなくなる。

 その気になつた時に意外なくらゐ、食べるのに苦労するのがおでんではなからうか。マーケットには袋詰めのが賣つてあるし、時期にもよるのだらうが、コンヴィニエンス・ストアでも色々な種が賣られてゐる。ちよつとした呑み屋でも幾つかの種が盛合せとか、そんな名前で出してゐて、それで苦労苦心するのは変だと云はれるだらうか。さう云はれたら、おでんは種をひとつかふたつ、頼んで、食べきつたらおもむろに次の種を頼むのが一ばん旨いのではなからうかと訊き返したい。袋詰めもコンヴィニエンス・ストアも、呑み屋の盛合せと同じで、その辺の樂しみに欠ける。

 糸蒟蒻。

 厚揚げ。

 大根。

 餅巾着。

 焼き豆腐。

 飯蛸。

 薩摩揚げ

 牛すぢ。

 うで玉子。

 かういふのを順番に註文して、少しづつ、つまむのは、お酒が紛ひものでない限り、確かに呑み助の理想郷である。何事も無い或る日の夕方、風の音を聴きながら、冷や酒をお供にすることを思へば、仮にそれらが目の前の卓に無くて、共寝の望めない夜であつても、腹と爪先は十分に暖められるのは間違ひない。

352 土鍋といふ大きな物体

 一人用の土鍋といふのを、獨居自炊を始めた頃に使つてゐて、それで天麩羅饂飩を煮たことがある。天麩羅はその辺のマーケットで買つた。饂飩が煮えるの待つ間に、そのマーケットの天麩羅が冷たいのが気になつたので

(饂飩が煮上がる直前に天麩羅をはふり込めば、熱くてうまい天麩羅饂飩になるだらう)

と思ひついた。それで土鍋に天麩羅を入れ、蓋をして、三十秒…一分には到らなかつたが、待つてから卓に運んで、蓋を開けたら、天麩羅の衣がつゆの大半を吸取つてゐたので一驚を喫した。自炊で失敗したのはこの前にもこの後にもあるけれど、食べるのがどうにもかうにも我慢ならなかつたのは、この一ぺんきりである。あの後に何を食べたのか、さつぱり覚えてゐない。

 さう云へばその一人用土鍋もいつの間にどこかへ行つて仕舞つて、併し惜しいと思はないのは天麩羅饂飩の失敗の所為か。それはそれであるとして、外に考へられるのは

「土鍋といふのは大きな物なのだ」

といふ気分である。幼少期の冬に家族や親族と一緒につついた水炊きだか寄鍋だかは、大きな土鍋で煮えてゐて、そこでは白菜や長葱や豚肉や鶏肉や鱈や豆腐や菊菜や榎茸や椎茸(今では春雨だの鮭だの肉団子だの、或は餃子や鰤のお刺身やお餅が入ることもある)がぎつしり煮えて、時に海老や蟹が入りもして、何とも嬉しかつた。さういふのに目と鼻と舌が馴染みきると、ヘルメットの代用品のやうに小さな土鍋は、どうも侘しく感じられるからこまる。

 その侘しさは小さいのがいけないのでなく、いやこれも小ささゆゑではあるのだが、食べたらお終ひといふ不安乃至不満を感じるからだらうか。大きな土鍋であつても食べ尽したら終りなのは同じと判りはしても、そちらだとほつとけば、中身が戻りさうな気がする。さういふ勘違ひを許して呉れるのが大きな土鍋であつて、その大きな土鍋で煮えてゐるものは、肉でも魚でも野菜でも何を取つても呑めるのが有り難い。また土鍋で煮えたのを食べるのに、何を呑まなくてはならないといふこともなくて、麦酒でもお燗酒でも冷酒でも葡萄酒でも焼酎でも、ひよつとしたらヰスキィの水割りだつてかまふまい。何なら麦酒から始め、葡萄酒の赤白を経て、冷酒に到つても問題はなく、となれば食事とつまみを兼ねる食べものが入る土鍋は大きいに越したことはなく、家族でも友人でも土鍋を囲む何人か、たれかがゐる方が遥かに望ましい、といふより、さういふ場所の眞ん中に似合ふのが土鍋即ち鍋料理なのだと考へたい。さういふ大きさの土鍋ならうつかり、マーケットの天麩羅を落として仕舞つても、どうにかなるのではないだらうか。

351 麦酒を招くやうなカメラ

 手元にリコーのXR‐7MⅡといふ旧式のカメラがある。調子のよくない個体で、時々ミラーが上りつぱなしになるから、気がるに持ち出しにくい。

 併し機能の面を見るとまつたく気がるな機種であつて、詳しいことはご自身でお調べなさい。特筆すべき点は何も無く、カメラの基本的な使ひ方を知つてゐれば、説明書を失くしても困りはしないとここでは云つておく。

 これはどうやらコシナからOEM供給されたらしいのだが、その辺はまあどうだつていい。旧いのも含めたKマウントのレンズを使ふには中々都合が宜しく、今のリコーがデジタル方式でかういふカメラを用意しないのが不思議でならない。

 がらくた函に転がつてゐたペンタックスのM28ミリ(F2.8)をつけた。それだけでは寂しい感じがされたので、オリンパスの28ミリ(F3.5)用のフードを追加した。レンズ・キャップはコシナ。それからニコンのシャッター・ボタンと接眼当てがあつたから更に取りつけた。惡くないなと思へて、さうなるとストラップをつけないと締りがないから、コニカの布ストラップを引張り出した。ペンタックス28ミリと同様、全部がらくた函からの發掘である。何故こんなものが埋もれてゐたのか、さつぱり判らない。

f:id:blackzampa:20190831151810j:plain

 その辺りの事情は兎も角、この混成XR‐7MⅡは恰好がよい。フヰルムを一本詰めて、一日掛りで撮つて、プリントに出してから、麦酒を呑みに行きたくなる、といふのは、わたしにすれば褒め言葉になる(ライカだと、うつかりが怖くて、とても呑まうとは思へない)のだが、ここで云ふ恰好よさは寫眞を撮りたいと思はせる恰好よさでなく、麦酒を呼ぶ恰好よさである。

 打ち割つて云ふと、どこかに行つて寫眞を撮らうと思へたのは、もう何年も前の話で、今となつてはさういふ目的で、カメラを持ち出すのが、面倒で仕方ない。尤も撮影やカメラがきらひになつたとまでは云へなくて、自分の樂しみの中での順位が低くなつたのが實情だらう。

 では何の順位が高くなつたのだと訊かれさうだがそこまでは判らない。どうせ麦酒だらうと云はれても、麦酒の順位は元々カメラより高い。それは寫眞といふ藝術を愚弄する態度だと叱られるかも知れないが、寫眞は寫眞である。その中の何枚かがもしかすると藝術に重なつても、それが寫眞そのものを藝術にするわけではないし、仮にさうなつたとしても、その藝術はたれかに任したい。

 かう書いて不意にカメラと撮影と寫眞をごちや混ぜにしてゐるなと気がついた。それで冷静になると、わたしはカメラといふ物体が好きで、寫眞を観る行為はそこそこで、撮影といふ動作にはそれほどの思ひ入れが無い…無くなつたのではないかと思つた。混成式のXR‐7MⅡを、麦酒を招くやうなカメラと褒めたくなるのは、その辺に事情が潜んでゐると考へられるが、キヤノンニコンでさういふ感覚を覚えた記憶が無いのは何故なのか。