閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

001 閑文字

 閑文字手帖といふのは、閑(ナ時ニ讀ム または ニ任シタ)文字(ガ書カレテヰル)手帖くらゐの意味合ひで、何か複雑な…たとへば暗号めいた隠し事があるわけではない。書くこちらは気樂なものだから、讀者諸嬢諸氏も肩に力を入れると、損をします。

 それでいつ、閑文字といふ言葉を知つたのかといふと、記憶がどうも曖昧である。丸谷才一の随筆なのは確實なのだが、どの本でいつ目にしたのか、判らない。いい加減と云つてもらひたくはないね。手元に何冊もあるし、何べんも讀み返してゐるんだから、どの一冊で最初に目にしたかなんて、覚えてゐるわけがない。併し言葉自体は記憶にはつきりしてゐたし、これなら雜文とまでは卑下したくないが、随筆と称するほど厚顔にもなれない気分にも具合が宜しい。尤も丸谷の用ゐ方が冗談めかした謙遜なのに対して、こちらは随分な見栄張りだから、文字面は同じでも、中身はまつたくちがふことになる。いいのかなあと思ひながら、かれ…即ち丸谷の『食通知つたかぶり』(名著です。日本の食べものの話の本では、檀一雄の『檀流クッキング』、吉田健一の『私の食物誌』に並ぶと思ふ)を讀み返してゐると、後書きに、この本の題を決めた料理屋での話があつた。ここから引用になりますよ。

 

 「知つたかぶりはいいが、食ひ道楽はいけませんね」

 「はあ」

 「あれは明治になつてはやつた言葉です。江戸は食通。食通知つたかぶりがいいでせう」

 「しかし、食通つて柄ぢやありません」

 とわたしが半分は本音、半分は謙遜で答へたとき、夷齋先生、一杯機嫌でいはく。

 「なーに、かまふもんか」

 

注釈めいたことをいふと、夷齋は石川の雅号。閑雅ですなあ。文學者は矢張り、かうでなくちやあいけません。尤もたとへば村上春樹辺りが雅号を持つたとしても、気取つてるなあとしか思へないかも知れない。ああいふのは明治の文士(たとへば夏目漱石森鴎外、内田百閒、永井荷風は皆、明治人だし、夷齋先生もまたさうであつた)でないと似合はないのか知ら。

 

 ええと。何の話だつたか。

 

 さう、"なーに、かまふもんか"だつた。えらく伝法なもの云ひにも思へるが、夷齋石川淳は東京人で、骨の太い、洒落た文士でもあつたから、不似合ひではない。吉右衛門演ずる長谷川平藏が、市中見廻りの時、晝酒を汲みながら(兎汁でも肴にするのだらうな、きつと)呟いてゐるみたいで、恰好いいよ。年経たひとでないと云へないね、かういふ科白は。おつと。また話が逸れさうになつた。"閑文字"の使ひ方は丸谷とわたしでは丸きり…繰り返せば謙遜と見栄…ちがふ。こちらに謙譲の徳があれば、そんなら"閑文字"を用ゐるのは控へるべきかと考へるところだが、夷齋學人の"なーに、かまふもんか"が目に入つて仕舞つた。仕舞つたついでに、上方の落語家の

「なーに、謝つたら、仕舞ひや」

も思ひ出した。たれがどんな時に云つたのか、当てにならない記憶だと、かんべむさしの短いエセーだつた気がする。落語家の"なーに"だから、冗談と居直りのカクテルみたいなもので、夷齋先生のやうな苦みの薄いのが有り難く、こちらの方がわたしに似合ふ。まあ、いづれにしたつて、"閑文字"に屈折と開き直りの気分を織り交ぜながら、書き散らすのだけは決つてゐる。なーに、たかだか、閑文字ぢやあないかと、肩肘張らず、お付合ひ願へれば嬉しく思ひます。