閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

002 焼き餃子

 ふと思ひたつと、どうしても食べたくなる食べものと云へば、餃子ではなからうか。根拠になる有意の数値を取つてゐるわけではないから、あなたが単に、餃子好きなだけでせうと云はれたら、どうにも反論が六づかしいけれど。

 その餃子を遡ると少なくとも紀元前六世紀頃、春秋の遺跡で見つかつた壷(副葬品といふ)の乾燥した餃子まで辿り着けるらしい。らしいといふのは、"小麦の皮に具を包んで加熱した食べもの"自体はメソポタミアにもあつたらしいからで、どこまでを餃子とするのか、議論の余地はありますねえ。併し紀元前六世紀と云つたつて、漠然としてゐる。有名なところを挙げると、バビロンの虜囚やアケメネス朝ペルシアの成立、ローマが王政から共和政に移行したのがこの時代。中國では周が滅んで大小の王國が覇権を争つてゐた。東西どちらも、賑やかな時代だつたのですな。餃子壷に戻ると、これは山東省…黄河下流にあつて、遼東半島と向ひあふ位置。青島があるのはここです…で發見されてゐる。ざつと調べると、孔子孟子孫子諸葛亮王羲之に顔眞卿と凄い人物を輩出してゐたから驚いた。餃子(の原型)を生み出すくらゐだから、偉人のひとりやふたり、ゐたつて不思議ではないか。

 ところで、餃子壷に近い時代を生きたと思はれるのは孔子孫子。少なくとも名前は、馴染みがありますね。なに、詳しいことを知らなくたつて恥ぢることはない。歴史上の著名人で知られる話は、ひとつかふたつが精々なんです。カエサルなら"賽は投げられた"だし、ナポレオンだと"ジョセフィーヌ、けふは疲れてゐるから"でせう。カントなんかはもつと気の毒で、本筋の哲學ははふり出され、時間に精確な生活しか浮んでこない。本人にはいたく不本意だらうとも思はれるが、我われは名前の欠片も残らない。果してどちらが幸せなのか、時間のある夜に、一ぱい呑りながら考えへてみるとして、では孔先生や孫先生は餃子を食べたのだらうか。餃子をつまみながら弟子に講義をする孔子や、兵法を練る孫子の姿を想像すると、何だか面白みに欠けてゐさうな偉人が、途端に場末の餃子屋で呑んでゐる小父さんめく。うーむ、ここは矢張り食べたと考へておきませうか。中國人には叱られるかも知れないけれど、かういふ想像も惡趣味なだけではないのです。

 

 さてここで伝説。孔子孫子も食べた(だらう)餃子の發明の栄光は張機といふ人物に帰するらしい。一世紀後半の医者で字は仲景。『傷寒論』の著者で、"医聖"とも讃へられる。このひとが凍傷に苦しむ町民に、大鍋で与へたのが、羊肉に花椒、去寒の藥剤を煮詰め、刻んで、小麦の皮でくるんだもの。張先生の名づけていはく"去寒嬌耳湯"…耳の字が入るのは、くるんだ形が似てゐたから…略して嬌耳で、元は詰り、藥だつたことになる。当時の發音がどうだつたかは知らないが、嬌耳と餃子なら似てゐるんではないかと思へて、藥剤から食べものに変化するうち、宛てられる字にも変化があつたのだらう。嬌耳が餃子の初めだつたかどうかは判らないが

 

・具を小麦の皮で包んでゐる。

・鍋で煮上げる。

 

二点には注目したい。まあ藥だから、これを餃子そのものと呼べるか否かは、餃子をたべながら議論するとして、原型にはなつてゐると云つてもいいでせう。因みに云ふ。現代の中國でも餃子といへば茹でるのが基本で、余つたら翌日に焼くのださうで、何かと同じだなあと思つたら、スパゲッッティだつた。あれは"茹でて、お湯を切つて、バタを入れて、お皿に盛つて、チーズを山ほど振りかけ"て食べるのが断然うまい。伊太利人が炒めるのは、茹でた麺が余つた次の日ださうで、併し伊太利人は、茹であげたスパゲッッティを余らせる人種なのだらうか。但しスパゲッッティは伊太利式に軍配をあげても、餃子は焼いた方が好みに適ふ。何故と訊かれても、舌の馴染みがさうだからとしか云ふ他にない。この辺りは理窟より好みの問題だから、茹で餃子の方が旨いと断じるひとが出てきても、文句はつけない。

 

 小麦の皮を薄めにして、いきなり焼く方式は我が邦獨特の調理法らしい。茹で式では厚めの皮で主役を任してゐた。主の小麦と従の具が一緒になつてゐる点で、サンドウイッチを連想してもいいだらうか。それが來日してからは、薄皮を纏ふことでおかずに転じた。餃子にとつては不本意な転身だつたかも知れないが、我が邦ではごはんが圧倒的な主役だから、本來の姿ではとても太刀打ち出來なかつたのは容易に解る。またこの転身は餃子にとつて正しい判断でもあつた。茹で餃子のままで勝負を挑んでゐたら、惨敗は免れなかつたにちがひないもの。

 さう思ひながら調べると、餃子は日本に少なくとも十八世紀の終り頃には、伝はつてゐたらしい。安永七年刊の『卓子調烹法』といふ清國料理を紹介した本に"油ニテアクル、油ニテ煎ル、勢ロウニテムシ"とあるさうで、揚げ焼き蒸しの餃子を指すのだらう。併し果して食べられてゐたかどうか。もう少し時代を下ると長崎で、『清俗記聞』と題された清國のあれこれを公式に記した本…今で云へば、"海外情報"のやうな位置だつたのだらう…が編纂された。そこから料理の部分を抜書きにした『新編 異國料理』といふ本が、明治直前に刊行されてゐる。そこには

 

「麦粉を水にてかたくこね、棒にして薄くのべ、経三寸ほとづつに丸く取て、肉に猪肉を糸作りにして、椎茸葱を細く切まぜ、右の皮にて包み蒸籠にて蒸用ゆる」

 

とあるらしい。『卓子調烹法』と同じく、原本を見たわけではないから、字の用ゐ方が正しいかは分りませんよ。猪肉はシシニクと讀む。要は豚肉と葱、椎茸を(小)麦の皮に包んで蒸した料理で、蒸し餃子もしくは焼賣ですね、これは。中々旨さうである。それにここまではつきり記されてゐる以上、ごく限られた地域であつても、餃子…清國流の…は食べられてゐたと推測は出來るでせう。

 

 併し明治に入つてからの餃子はどうだつたのか知ら。面倒なので調べるのをさぼつたが、我われのご先祖は余り、興味を示さなかつた気がする。不勉強なわたしだから、見落してゐる可能性はあらるとして、明治の文學で餃子に触れた箇所はなささうに思ふ。『我輩は猫である』にだつて、トチメンボーやタカジヤスターゼは登場しても餃子は見られないし、弟子筋の内田百閒は無闇に旨さうな随筆を書いたひとだが、目を通した限り、餃子の文字は出てゐない。森鴎外永井荷風志賀直哉芥川龍之介太宰治谷崎潤一郎はどうだらう。ナオミやカンダタやメロスが餃子を頬張る場面は、想像が六づかしいし、あつても旨さうとも思ひにくい。

 記憶にあるのは『食通知つたかぶり』にある、井上光晴が餃子屋の客引きにかかつた逸話くらゐ。長崎は思案橋辺りの小体な餃子屋で、焼酎を呑みながら、小さな焼き餃子をつまんだとある。うまいだらうなと思ふが、初版が昭和五十年の本に書かれたお店が変らず営業を續けてゐるか、心許ないね。ここで思案橋と『新編 異國料理』は同じ長崎なのは、些か引つ掛かる。長崎といへば卓袱。卓袱といへば中國料理。中國料理といへば餃子であつて、あの土地に美味い餃子屋があるのはごく自然な成り行きと思へる。

 思へるのに、長崎と餃子が結びつかないのは、何故だらうか。

 ちやんぽんと豚の角煮、丸山の芸妓。ぶらぶら節。すべてに受け身の都市(山崎正和の指摘)崎陽…とは長崎の美称…で直ぐ浮ぶのはかういふところで、餃子は陰すら見えない。不思議ですねえ。長崎人は餃子を好まないのだらうかと疑念を抱きたくなつてくる。ひよつとして茹で餃子なのがいけなかつたのだらうか。實際、日本の焼き餃子の始まりを探つてみても、戰後、満州からの帰還兵が商賣で始めた、くらゐの記述しか見当らず、甚だ曖昧なままである。但し大陸からの無名の帰還兵といふのは、何となく判る気がする。商賣をしないと喰つてゆけないし、さうなるとかれらの経験にあるのは中國の食べものに(おそらくは)限られるだらう。本当なら本式に茹でて出さうと考へても、その為にはソップを用意せねばならず、もとでが掛かる。手間も掛かる。ええい、この際だから焼いて仕舞へ…といふのが焼き餃子の始まりではなかつたか。薄い皮は焼くのに都合がいい以上に、小麦を節約する便法ではなかつたか。さう考へると我が邦での歴史の浅さと、案外な種類の多さにも得心がゆくのだけれど、これは勝手な想像だから、信用してはいけませんよ。

 

 さて焼いたのはいいとして、どうやつて食べるのが宜しからうか。無名の餃子屋の親仁はきつと考へたにちがひない。食べものは勿論、調味料だつて入手に苦心した時代だもの、凝つたものを用意出來る期待は皆無に等しかつた筈だから、比較的にしても手に入り易かつた…詰りありふれた…醤油を撰んだのだらうとは、想像としてもごく容易である。要はやむ事を得ない撰択の組合せだつた筈で、併しそれが(先にも書いてゐるが)結果的によかつた。醤油味ならごはんに適ふのが第一の理由。第二の理由に、初期の投資が少なく済んだだらうことも挙げられる。鐵板と油、後は精々お皿くらゐでせう。帰還兵が当坐の口を糊する場合、敷居は低かつたのではなからうか。

 ではそれが、現代に到つて、専門店が成り立つ程度まで發展したのは何故だと疑問が湧く。そこで我われは蕎麦を思ひ浮べてもいい。いきなり蕎麦と云はれてもこまると、文句が出るだらうか。詳しく述べるのは控へるとして、あれは元々備荒食でした。ただそれだけだつた食べものを、粋で美味いものに仕立てたのは江戸人が誇つていい幾つかの功績に挙げられるでせう。長崎の卓袱も、明治の洋食もさうなのだが、何だかよく判らない、併し高級とは呼べない食べものを洗練させるのは、前時代人の得意とするところだつた。その技法が餃子でも發露したと考へるのはどうだらう。江戸の時代は百年掛りだつたのが、戰後は半世紀で済んだ。さういふ、或はそれだけの違ひであると、わたしはさう考へたいのだが、異論や反論の余地はたつぷりある。

 

 と、ここまでが前置き。

 要するに焼き餃子が大の好物なんですね、わたしは。安手のラーメン屋でもマーケットのお惣菜でも、専門と胸を張るお店でも、餃子の看板が目に入り、匂ひが鼻を擽ると、どうにも落ち着かなくなつて仕舞ふ。大体の場合、註文は二皿。壜麦酒もたのむ。経験的に云ふと、アサヒのスーパードライかキリンのラガーがあふ。一ぺんサッポロの赤星で試してみたいのだが、あれは運に恵まれないと呑めないからなあ。残念。

 お惣菜として買つてきた焼き餃子なら、ついてくるたれに、味つけぽん酢を少し混ぜる。辣油は使はない。外で食べる時は、以前なら辣油を醤油または餃子のたれで溶いてゐた。惡趣味だつたものだ。胃袋がすつかり弱くなつた今は、流石にそんな莫迦げた食べ方は出來かねて、酢醤油にすることが多いね。慾しいと思つたら辣油を少し。ちよいと気が利くお店だと、すりおろしの大蒜を用意してゐることがあつて、それはたつぷり使ふ。品のいい食べ方ではないが、さうやつて貪るのが焼き餃子の醍醐味と居直ると

「貪るのも大蒜を用ゐ過ぎるのも、感心せん」

と張機先生に叱られるだらうか。そんなら大蒜おろしに併せて、大根おろしも用意して胸を張りたくなつてくる。その大根おろしは、日本獨特の食べ方らしいから、"医聖"には理解してもらへる期待が薄い。