閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

014 罐詰雑考

 罐詰には日頃からお世話になつてゐる。鯖に秋刀魚、焼き鳥、その他、諸々。そのまま食べることがあれば、小鍋にあけて屑野菜と炊いたりすることもある。便利なものです、あれは。妙な罐詰に出会ふ機会も稀にあつて、とど肉の大和煮とカレー煮は忘れ難い。北海道で遊んだ知人のお土産だつた。どうすればいいかさつぱり解らなかつたから湯煎して喰つた筈だが、肝腎の味は記憶にない。当惑したまま食べた所為だらう。とどには失礼なことをした。さういへば鹿や猪や馬や熊肉の罐詰は見たことがない。長野や熊本であれば馬肉の味噌漬け罐くらゐありさうな気もするが、馬肉の一ばん旨い食べ方は刺身といふから、あつても賣れる見込みは少ないだらうか。
 尤も罐詰の始りを考へると変り種は邪道で、あれはそもそも軍隊の糧食として、ナポレオン時代の佛國で發明された。あの皇帝は國民皆兵といふ制度を作り出した。戰争形式の大転換で、十九世紀型近代の先鞭と云つてもいい。従來の戰争は貴族の占有だつた…詰り限られた人数が狭い範囲で戰ふ…のが、これで大量の人間を纏めて戰場に集めることが可能になつた。かれの遠征好みが成り立つたのは先づ、兵隊の血を幾らでも吸ひあげられるこの制度があつたからで、但しそれだけでは不十分でもあつた。兵隊は喰はせなくてはならないのだから、糧食や補給をどうにかしなければ、戰争を始めることは出來ても、継續は不可能である。当り前の話だし、それを理解してゐたナポレオンは
「何とかしろ」
と云つたらうね。長期の保存が出來て、運搬が容易で、大量生産が可能な食べものを
ボナパルトは慾してゐるのだ」
と、きつとせかせかした口調で要求したにちがひない。かのコルシカ人は食べものに大した執着を示さず、空腹を感じた時、料理が素早く出されることを優先してゐたさうだから(有名なマランゴも、皇帝を待たすわけにはゆかない事情から生れた苦肉の料理らしい)、味だとか栄養だとかには無頓着だつたらう。野蛮だねえ。佛國人とコルシカ人のちがひなのか、皇帝個人の資質なのか。後者ではないかと思ふが、であればボナパルト王朝が續いたとすると、佛國の食卓は現在と随分異なる姿になつてゐたかも知れない。その皇帝の要求に天才的な發明家が、かういふものが御坐います陛下と罐詰を差し出した…といふ話になるのかと云ふと、それでは残念ながら事實から離れて仕舞ふ。懸賞をかけたのださうで、たれの發想なのだらう。苦しまぎれだつたのか。

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 それで壜詰が最初に登場した。消毒した壜に食べものを詰め、蓋は蝋で封緘したもの。現代の壜詰とほぼ同じと見ていいでせうね。但し壜が割れるといふ理由で採用されなかつた。これは佛國人の發明。罐詰の發明はその後で、こちらは英國人の手になる。構造は壜詰と同じで、蓋は鉛で閉ぢたらしい。ではこれが佛國に採用されたかと云ふと、さうではなかつた。罐詰が發明された時期、佛國は大陸と英國を切り離す政策(所謂大陸封鎖令)を採つてゐたからで、さうなると佛軍は割れ易い壜詰でなければ従來式の糧食を無理やり大規模にして対応してゐたのだらう。露西亞での大敗北にはひよつとして、かういふ事情も含まれてゐたかも知れない。尤も佛軍に罐詰があつたとして、食料事情が万全になつたかと云ふと、そこは甚だ疑はしい。第一に詰める食べものの処理が不完全だつた。どうなるかと云へば、保管輸送中に醗酵が進んで罐が爆發することがあつたらしい。醗酵は腐敗でもあるから、仮に爆發しなくても、衛生的には問題が残る。露西亞は寒いから、その心配はないでせうと考へるのはいいが、もうひとつ、蓋を鉛で封緘した問題がある。鉛中毒の危険がそれで、冗談ではないよね。どちらにしても、ナポレオン時代の兵隊でなくてよかつた。

 罐詰が實用に足る程度まで發達したのがいつ頃なのか、不勉強ではつきりしないけれど、遅くとも大平洋戰争迄に一応の完成は見てゐたと思はれる。云ふまでもなく米國の兵隊に配られた糧食がそれで、こちらの印象で云ふと、ビーンズとポーク・ランチョンミートが浮ぶ。後者は特に飽きられたらしく、ここで商品名を挙げるとスパムで、モンティ・パイソンのスケッチで散々揶揄はれた挙げ句、今では迷惑なメールの代名詞にまで出世(?)したくらゐだから、余程だつたのだらう。スパムを始めとするポーク・ランチョンミートは沖縄で随分お世話になつたから、惡くちは云ひたくないが、毎日毎日の三食三食がこれとビーンズだつたら、幾ら寛容を旨とするわたしだつてうんざりして仕舞ふ。伊太利の某作家だつたかが、敗戰後に米國から支給された罐詰を食べて

「餓ゑを塞ぐのには宜しいから、有難く食べる。かれらのイデオロギーは棄てておくこととする」

と日記に書いてあつたのを讀んだ記憶があつて、亞米利加の無邪気な善意への皮肉と、敗ける戰に臨んだ自國の愚劣さへの強烈な厭惡を同時に感じたのだが、そこで作家を嘆かせるのに、罐詰ほど似合ひの小道具はなかつた。かれの元に届けられた罐詰はレーションに毛が生へた程度だつたにちがひなく、伊太利人作家にとつては、辛うじて食べものと認められたかどうか、危ふいところだつたらうな。同情したい。

 してみると、罐詰が我われに馴染み深いあの罐詰になつたのは、二十世紀も半ばを過ぎてのことか。明確な根拠も持つて云ふのではないから、信用されるのはこまるが、大間違ひでもなささうな気がする。我われの世代なら風邪引きの時の白桃や黄桃(あれはまつたく、贅沢だつたなあ)、デザート代りの蜜柑やパインアップル。今ではとんと見なくなつたくぢらの大和煮。かういふのは實用といふより、喰ひ意地の發展と考へる方が正しいのではないかと思へるし、材料の手配やら衛生の方式やら生産の技術やら輸送の手段やらが纏まらないことには、罐詰の範囲は広がらなかつただらう。それらが整つたのは戰争の後と想像するのは寧ろ自然ではありませんか。かういふ食べものが佛國皇帝の時代に無かつたのは、近代史の幸せであつた。ボナパルトならポーク・ビーンズ一辺倒でも、平気な顔で食べ尽した挙げ句、兵隊にも押しつけて、何がいけないのか、さつぱり理解しなかつたにちがひないもの。