閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

015 もてなしは焔

 印度には"火は一年をとほして佳きもてなし"といふ箴言があると、わたしはサヴァラン教授から教はつた。ご存知でない方がゐるとこまるので云ふと、ブリア・サヴァランは十八世紀半ばから十九世紀初頭の佛國人。法律家で政治家でもあつたが、わたしたちにとつては寧ろ、『美味礼讃』で偉大な名を残した美食家といふ方がいいでせう。

 尤も美食家だから順風満帆の生涯だつたらうと考へるのは誤りで、かれの生きた時代はバスチーユ監獄の襲撃、共和制の成立からジャコバンの独裁とクーデター、ナポレオン・ボナパルトの登場と退場に到る大革命期とほぼ重なつてゐる。佛國にとつて空前の激動に巻き込まれ續けた(ある一時期には米國に亡命すらしてゐる)中、バイオリンを嗜み、狩猟を樂しみ、ご婦人方との会食に臨んだことを思ふと、たとへば我が邦の江戸政府末期から明治政府成立にかけての時期、巻き込まれつつも趣味をよくし、或は閑雅な文字を書き連ねたひとがゐただらうかと不安になる。

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 日佛の比較はさて措いて。

 『美味礼讃』を初めて讀んだのは二十年余り前だつた筈だが、そこで印度の箴言を目にした時はあんな暑い土地で火がもてなしになるのか知らと不思議に感じた。我ながら何と云ふか、想像力が貧困だつたなあと思ふ。あれは象徴的な云ひ方であつて、火は飲みものを食べものを…もつと云へば豊かさを暗示してゐる。それが解つたのは何し べんかこの本を讀み返してからだつたから、想像力の貧困と同時に、理解する能力にも色々と不足があつたといふことだ。これではいけないね。反省してゐます。

 

 家にあるのは二口の瓦斯コンロで、お湯を沸かし、或は葱や白菜や豚肉を焚き、饂飩や素麺を茹で、即席のカレーを温めもする。さういふ大半は電子レンジを使ふ方が早いし樂だよと忠告くださるひともをられるだらうが、またそれは正しい忠告なのだらうが、何しろ持つてゐないから仕方ない。買はうと思へばいつでも買へるのは判つてゐても、持たないままで何とかなつてきたんだと思ふと、今さら手に入れるのは業腹な気がされる。なので瓦斯の火はわたしにとつて日常的な光景であつて、家以外の場所で電子レンジが動く様を見ても、あれでいいのか、不安になつて仕舞ふ。

 

 併しここで考へると、獸は火を怖れるといふ。實地に見たことはないけれど、誤りではないと思ふ。確か好熱性細菌があるぞと指摘する聲もありさうで、だがあれは環境の話であつて焔の中を好んでゐるわけではないでせう。電気ストーブの前から動かない猫もゐるねと云はれたら、すりやあ暖かい場所だからで、焚き火好きな猫が果してゐるのかは疑はしい。してみると焔を歓ぶのは、動物の中で我われだけと見立てて、まあ誤りにならないだらう。では、何故か知らと思ふに

 

1.それは安心の象徴である。獸を避け、灯を得、また暖をとることが出來る。

 

2.それは食べものの幅を広げもする。熱を通せば生では無理なものも食べられるようになる。

 

3.それはまた藝術の母胎でもある。詰り土器のことで呪術…宗教と思索の始りでもある。

 

かういふ條件が古代に揃つて、その曖昧な記憶が我われを歓ばすのではないか知ら。科学が發達した現代、流石に意識はしないだらうが、意識にのぼらないといつても、それが無いのを意味するわけではない。印度人…少なくとも古代の印度人には"過去から未來といふ直線的な時間"の概念がなかつたか、極端に薄かつたさうだから、さういふ未開の頃の感覚に敏くて、これは客人への佳いもてなしになるぞと気づいたにちがひない。きつとサヴァラン教授は、招かれた家で栗を詰めた山鳥が焼かれる焔を見つめた時、印度人の箴言を實感したにちがひない。わたしがカレーを温めるコンロを眺めながら気がついたから、云ふのではないのだけれど。