閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

026 懊悩とは別

 建物の姿は植物と共にあるとか何とか、さういふ意味のことを谷崎潤一郎が『陰影礼讚』で書いてゐた記憶がある。幹や葉の姿や蔭、庇の形に壁の色といつた要件をひとつに捉へたから、かういふすすどい見立てが出來るわけで、こちらとしては大谷崎は凄いなあと感心しておけばよい。それで感心しながら紅葉を眺めると現代式の建築にも似合ひはして、我われの周辺にあるのが現代式建築だから目が馴染んでもゐるのだらう。併し神社やお寺の古式な建物、或は藏の白壁に添ふ紅葉(逆さに考へたつてかまはない)の様を見ると、収まり具合が丸で異なつてゐるのが解る。現代の建築物はどうも獨立の性質が強く、隣の建築物や周りの樹木を無視してゐる風に感じるが、旧來の建物にさういふ性質は窺へない。それはどんな理由だらうと思ふに、神社やお寺はひとが棲む場所ではない。神佛が居ますところであつて、土地自体も捧げ物である。涼やかで穏やかな美麗の光景でなくてはならず、建物はそこに鎮めるやうに華美を抑へ、土地の光景と共になくてはならない。我われが古刹を訪れて漠然と感じるせいせいした気分は偶然ではなく、古人の畏敬の念の顕れを樹々から零れる光や葉を鳴らす風や建物の蔭から感じてゐるからで、さういふ古代的なまたは土俗的な感情…もつと俗に(超)自然への畏怖が導いた調和と云つてもいい…を排して出來上つた現代の建築物にそれを求めるのは、烏に鶯の鳴き眞似をさせるより無理がある。では改めて古式めいた白壁の藏を建て、紅葉にあはせればいいかとなつて、多少はましかも知れないが、土地の祝福の無い建物に人工的な自然美を期待するのも矢張り無理がある。だとすると現代の町並みを丸ごとどうにかしなくてはならないのかとも思はれて頭を抱へたくなつてくるのだが、さういふ文學的審美的な懊悩とは関係なく紅葉は美しい。

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