閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

044 惡癖なのだから

 “蕎麦屋で呑む”のは一種の惡癖でわたしはこの惡癖をニューナンブの頴娃君から教はつた。一合のお酒に板わさか玉子焼きか鴨焼きをあはせる。お酒を註文したら、ちよつとしたつき出し(揚げた蕎麦とか味噌とか)が用意されるから、肴はこれくらゐで足りる。その後にもり蕎麦を一枚。これで今ならどうだらう、二千五百円とかそんな値段ではないか知ら。安つぽい居酒屋で呑むより旨い。ただかういふのは晝間の愉しみだから、何とはなしに駄目な小父さん気分にもなる。それはいい大人が晝間つからといふ後ろめたさと云つてよく、蕎麦屋で呑む味には、その後ろめたさも含まれてゐるんだよ。…と強弁しても、我が若い讀者諸嬢諸氏には理解し難いだらうなあ。

 ところで。

 かういふ呑み方は蕎麦以外でも成り立つのか知ら。どうも六づかしさうに思はれる。

 たとへば饂飩。讃岐では饂飩屋におでんも用意されてゐるといふから出來なくはなからうが(實際、江戸でも蕎麦がのしてくる前は、饂飩一辺倒だつたといふ)、地域色が濃すぎる。種…天麩羅や蒲鉾やとろろ昆布を考へたら、成り立つても不思議ではないのにさうならないのは、矢張り饂飩が小腹を満たす為のおやつだからだらうね。

 では食事に近しい方向でラーメンならどうか。搾菜や叉焼、餃子で紹興酒を樂しんでから、おもむろに醤油ラーメンなぞを啜り込む。…落ち着かないね、何だか。味噌ラーメンの具をつまみに麦酒を呑むのはうまいが、蕎麦式に当て嵌らない。それに紹興酒を引つ掛けるなら、蟹玉や酢豚や八宝菜を並べたくなつて、ラーメンの入る余地がなくなる。食事に近すぎるのだな。

 さう考へると晝間に外で呑みたくなつた時の蕎麦屋は非常に有用な場所なのだと判る。かう書けばきつと我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から、それは堕落であると非難される可能性がきはめて高い。晝は労働といふ神聖な時間に使ふのが正統であつて、呑む即ち醉ふのは邪道ではないか。と云はれたら頭を抱へて仕舞ふのだが、半年に一度ぺんくらゐなら許してもらつてもいいんぢやあないかと云ひ訳をしたくもなる。併し蕎麦屋で呑めるのはお酒か精々麦酒、気が利いても焼酎(蕎麦湯割り)くらゐで、勿論それはそれでいいとしても、それしかないのはどうも困る。贅沢な悩みといふよりただの我が儘なのは承知してゐるが、呑み助とはさういふ生き物なんである。

 そこでわたしはスパゲッティに期待したい。ハムやチーズ。肉の煮込み、レヴァ・ペースト、ピックルス。蛸や烏賊のオリーヴ油漬け。さういつたのをつまみながら、葡萄酒を半壜。その後にボロニェーゼでもカルボナーラでもナポレターノでも、或は日本式のナポリタンでも、ひと皿に取り掛かる。どうです、中々の名案でせう。スパゲッティは元來アンティパストだといふ指摘は出てきさうだが、その態度は本格の伊太利料理を味はふ時に取つておけばよく、こんな樂しみ…邪道なのはこの際認めませう…があつてもいいぢやあないか。但しこの名案にも難点があつて、詰りかういふお店が幾つあるのか、甚だ心許ない。晝間から呑むのは惡癖なのだから、心許ないくらゐでいいのかも知れないけれども。