閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

046 食べにゆく

 たとへば一泊の旅行に出るとしませう。二泊でも三泊でも、或は一箇月でも、その辺はお財布が許す限り、好きに日程は組めばいいが、兎に角旅行に出るとする。その時に何を目的とするか、といふのは意外に難問ではないかと思はれる。

「それは矢つ張り、旅先でのひととの触合ひ」

などとは云はないでもらひたい。丸々否定する積りまではないけれど、そんなら隣近所のひとと触合ふのが先ではありますまいか。そこを蹴飛ばして、触合ひだの何だの云はれても、すりやあちよつとと云ひたくなつて仕舞ふ。さういふのをわたしが苦手とするのも、まああるのだけれど。

 そんなら何を目的に旅行するのか、と疑問が湧くのは当然で、併し我われには『阿房列車』といふ“どこかに行く”のではなく、“汽車に乗る”こと自体が目的の困つた實例がある。神社佛閣も風光明媚な土地柄が出ないのは勿論、驛弁当も意味ありげな美女も出てこない。内田百閒とヒマラヤ山系氏が特別急行列車に乗り、お酒と麦酒を呑み、帰つてくるだけの話なのに、兎にも角にも面白い。丸谷才一が達意で無内容で、その無内容が内容に変化する藝だと絶讚(だらうね、これは)したのもむべなるかな。『阿房列車』については第十六回で既に触れてゐるから、ここでは踏み込まないとして、凡俗の身で百閒先生のやうな“無目的といふ目的”をかかげて旅に出るのは幾らなんでも無理がある。なので旧所名跡やら御祭やら佛像やらを見つけなくてはならない。

 とは云へ神社佛閣や絶景でなければ旅行の目的にならないと考へるのは正しくない。目的のひとつにはなるけれども、乱暴に云ふと見れば終りであつて、その後はどうすればいいのか。天下に名高い名勝でも、雲や波が余程鮮やかでない限り、半日眺めて飽きないとは考へにくい。十分とか長くても精々半時間とかで見終へた気分になつて、バスの時刻表やお晝に何を食べるか、お土産は何を買へばいいか、そんなことが頭の中を散らつくのではないだらうか。観光地とは大体がそんなものだから、気にしなくてもいいけれど、十分の為に何時間かを使ふのは勿体無いと考へても責められる筋はなからうとも思はれる。だつたらさういふ場所を目指すのは最初から止めにするのもひとつの方法だらうとなつて、わたしは(どちらかと云ふと)そつちに与する…与したくなる。

 有り体に云へば田舎の美麗な風景や建物を見るなら、隙を見て食べ且つ呑む方が悦ばしく、さう考へるなら、特別急行列車に乗るの(と驛弁当に罐麦酒)は吝かではないとしても、風光明媚を探す必要もない…少なくとも主役に据ゑなくたつてかまはないといふことになる。寧ろ旨いものを狙ふ方が失敗る可能性はひくいのではないか知ら。別に土地の名産…たとへば茨城の鮟鱇や静岡の櫻海老を目指さうと云ふのではない。それなりに古ぼけた町なら、その町に住むひとが通ふめし屋呑み屋がある筈で

「それこそ自分の町にあるでせうに」

と呆れてはいけない。自分が住む町の呑み屋はそれとして、地元の呑み助が足を運ぶ呑み屋だつたら、鶏の唐揚げでも厚揚げ焼きでも臓物の煮込みでも旨いにちがひない。そこに地元の野菜なり味噌なりと常連さんの下らない蘊蓄話が加はれば、風光明媚な名所旧跡より旅行気分の濃度が余程高まるといふものだ。地のお酒があれば贅沢もきはまれりと云つてよく、いやまあ、麦酒や焼酎、野暮つたい葡萄酒でも歓迎に変りはない。

 さうなると行く場所は半ばどこでもよくなる。金澤や新潟や仙台、博多、香川、倉敷、鶴岡辺りは一ぺん訪ねたいのだが、ああいふ土地だとどうしたつて折角足を運んだのだからといふ気分になつて仕舞ふ。それはまあいいとして、さういふ気分にならない…いやさういふ気分が(比較的)薄い、たとへば立川。たとへば宇都宮。たとへば甲府。たとへば焼津や浜松。或は赤羽でも立石でも船橋でも(この偏りはわたしが東都にゐるからで、ここに挙げた町に含むところがあるわけではない、と念押ししておきませう)問題にはならない。安いビジネスホテルだかで寝床を確保すれば、後はぶらぶら呑み屋が並ぶ場所を探すだけの話。気樂で宜しい。但しこの場合、連れがゐるとその気樂さが半減しかねない点は用心しなくてはならない。食べにゆく(呑むのも含めて)為に一泊(またはそれ以上の予定で)するなら、同行者がヒマラヤ山系氏のやうな人物でもない限り、ひとりが望ましい。わたしが百閒先生ほどえらくないのは云ふまでもなく、併しかういふ旅…呑み喰ひはしたいから、近々ひとりでビジネスホテルの予約を取らうかと考へてゐる。