閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

058 公爵ソース

 マヨネィーズと“ィ”を入れて表記するのは、『洋食や』(茂出木心護/中公文庫ビブリオ)の眞似事。スプンやホークと書くのも同じで、我ながら節操なしの態度だと思ふ。佛語でmayonnaiseと綴る。羅馬字讀みをすると發音はマヨ(ン)ネイゼに近さうな気もする。それで何しろマヨネィーズである。キューピーに訊くのが一ばんいい。

https://www.kewpie.co.jp/mayo/about/birth-story/

このサイトには以下の記述がある。

『18世紀半ば、メノルカ島(スペイン)での出来事です。当時イギリス領だったこの島にフランス軍が攻撃をしかけました。その指揮をとっていたのがリシュリュー公爵。戦火の中、公爵は港町マオンで料理屋に入り、お肉に添えられたあるソースに出会いました。

そのソースを気に入ったリシュリュー公爵は、後にパリでそのソースを「マオンのソース」として紹介しました。 それが「Mahonnaise(マオンネーズ)」と呼ばれ、その後「Mayonnaise(マヨネーズ)」となりました。これがマヨネーズの最も有力な起源説といわれています。』

断定を控へながら、簡潔に纏めてゐますな。マオンのソースにはもう少し踏み込んでもらひたかつた気もするけれど、そこまで求めるのは酷と云ふものか。

 リシュリュー公爵は爵位。ここに書かれた公は第3代ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシを指す。1756年のメノルカ攻めはルイ15世の治世下。ブルボン朝の末期にあたる。因みに云ふと、ザルツブルクモーツァルトが生れたのがこの年。和暦でいへば宝暦6年。第9代将軍徳川家重の治世。初めて聞いた名前だなあ。特筆したい出來事もなく、詰り天下泰平…たつた1世紀後に幕府は倒れるのに…で、当時の日本で用ゐられた調味料は醤油と塩と味噌、後は酢に若干の甘味くらゐだつたんではなからうか。更に余談を加へると、メノルカ攻めに先立つ時期、日本の醤油は佛國に輸出された(和蘭を経由したのか、清國経由だつたのか)さうで、リシュリュー公は醤油の味を知つてゐたかも知れない。

 公爵に戻れたので、マヨネィーズの話を續けませう。上の文章を改めて讀みなほすと、マオンでリシュリュー公を悦ばせたマヨネィーズの原形は肉に添へられたことが判る。牛か鶏か羊か豚かそれとも臓物か、焼いたか茹でたか揚げたのか、温かだつたのか冷たかつたのか、調べてみてもこの辺りははつきりしなかつた。今の頭で考へると、肉料理には似合はなささうに感じられるが、マヨネィーズを広く

『卵と酢と油でつくるソースの一種』

と解釈すれば、味はひは幾らでも工夫出來ることになつて、それなら肉料理に添へる為のマヨネィーズがあつても不思議ではなくなる。實際、マヨネィーズは使ひどころのきはめて多いソースである。ここで、再びキューピーに頼ると

https://www.kewpie.co.jp/mayokitchen/

これだつて使ひ方の一部に過ぎない筈なのに、膨大だなあと感心させられる。佛國ではどうなのか知ら。喰ひ意地は世界に共通するし、何せ本場だもの、色々あるにちがひないとして、具体的にどうなのか、ちよいと気になるね。わたしも使ひますよ、勿論。但し使ひ方はごく当り前で、ウスター・ソースやケチャップと混ぜ、或は醤油生姜大蒜胡麻辺りをあはすのが精々。使ふのは生野菜でなければ白身魚のフライ、鶏の唐揚げ、竹輪の磯辺揚げくらゐか。トマトや胡瓜やチーズと一緒にトーストすることもなくはない。まあ、マヨネィーズの味はひ方としてはまことに単純で、佛國人には甚だしく軽蔑されるだらうな。

 ここで開き直ると、本邦で賣られてゐるマヨネィーズは旨すぎる。ごく眞面目な料理愛好家に云はせたら、マヨネィーズは買ふものでなく、作るソースかも知れないし、わたしの舌なんぞ、大した出來でないのは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の熟知されるところとして、少なくともマーケットで賣られてゐるマヨネィーズは、キューピーでも味の素でもその他の銘柄でも、まづくないと断定して異論は出ないと思ふ。それに手作りではないマヨネィーズを用ゐた食べものはどこでも見掛ける上にそこそこうまい。かう書くと、厳密な讀者諸嬢諸氏から

 「マヨネィーズを使ふと、味がマヨネィーズ一色になつて仕舞ふよ」

 「だからこの男に食べものの話をさしてはいけないんだ」

さう叱られさうで、それは誤りではないのだけれど、外のソース(たとへばケチャップ)や調味料(たとへば七味唐辛子)だつて、使ひ方を間ちがふと、えらいことになる。マヨネィーズだけを槍玉に挙げるのはをかしい。寧ろ和洋中を問はず、温冷焼揚炒蒸烹生に対応し、甘辛苦酸も肉魚介野菜も撰ばない応用力の高さを思ふに、もしかすると醤油に対抗出來る殆ど唯一のソースがマヨネィーズではなからうか、と思ひたくもなつてくる。マオン生れ佛蘭西育ちのソースに敬意を表して、明日の晩ごはんは、豚肉の生姜焼き…いやポーク・ジンジャーにマヨネィーズを添へてみませうか。かういふ複雑な組合せはリシュリュー公も知らなかつた筈だし、悦ばれるのではないかとも思はれる。待てよひよつとすると、これでは葡萄酒に適はないよと苦笑を浮べるかも知れない。