閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

064 幸せ卵

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 前回の[063 例外色]に續いて卵が登場する。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏からは、片寄つてゐるよと云はれさうな気もするが、卵はわたしの偏愛する食べものなので、ご容赦願ひます。それに偏愛なのだから、片寄りも仕方がない。

 立ち喰ひ蕎麦屋でわたしが好むのはたぬき蕎麦なのは、随分以前に触れた記憶がある。きつねや若布、掻き揚げを好まないのではなくて、ことの外、たぬきが好きなのだと考へて頂きたい。

 時々足を運ぶさういふ安直な蕎麦屋(但し値段を考へると中々うまい)では、お客のちよつとした我が儘…月見に若芽の追加や冷しの山葵抜き…に応じて呉れる。値段は掛け蕎麦(220円)を基準に、差額が追加料金になる。たとへば月見は260円だから、生卵の追加は40円。天麩羅だと300円で、掻き揚げは80円で追加出來る。實に判り易い。

 だから一ぺん、やつてみたいなあと思つてゐたのだが、いざとなると云ひにくいですね。ことに外のお客が待つてゐると、どうしても遠慮して仕舞ふ。かういふ時に限つて、常連さんがさらつと

「きつね蕎麦に若布」

なんて註文をして、おれの気遣ひは何だつたのかと腹立たしくなつてくる。顔に出さない程度、齢を重ねてゐてよかつた。

 ある日の午后おそく、偶さかその蕎麦屋の前を通ると、うまい具合にお客がゐない。都合よく小腹も空いてゐる。これはいい機会だと思つたから潜り込んで

「たぬき蕎麦…に卵を入れてもらへますか」

と註文した。亭主が厭な顔をする筈もなく、生卵入りたぬき蕎麦は恙無く、わたしの前に運ばれてきた。油つ気とつゆの辛みを、卵の軟らかい冷つこさが受けて、まことによろしい。黄身は蕎麦を途中まで啜つてから、ちよいと崩した。かういふ場合、卵は崩しても混ぜない方がいい。七味唐辛子は出合ひものだが、卵にかからないよう、気をつけて。260円のたぬき蕎麦に追加の生卵が40円。〆て300円の一ぱいは、味の変化に富んで、満足に値するものでありました。