閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

065 本の話~番外篇

 最初に買つてもらつた小説は『太陽系七つの秘宝』だつた。エドモンド・ハミルトン野田昌宏…かれが宇宙軍大元帥と知つたのは、随分と後になつてからだつた…の翻訳で、ハヤカワSF文庫版。今は確か創元文庫に収められたと思ふが、挿し絵が水野良太郎でないと、落ち着かなくていけない。この『太陽系七つの秘宝』(發表は1940年)は極微の宇宙である原子…その鍵になるのが“七つの秘宝”と呼ばれる宝石…の中にキャプテン・フューチャーが飛び込む筋立て。いやあ、スペース・オペラの時代ですねえ。

 それを讀んだのが30年余り後の少年で、實にこれはわたしにとつて、讀書経験の衝撃であつた。何しろそれまで讀んでゐたのがロフティングの“ドリトル先生”シリーズやミルンの“プーさん”、スウィフトの“ガリヴァー”(但しリリパットとプロブディンナグのみ)だつたから、これは激変的な経験と云つてもいい。一体親が何を考へて買ひ与へたのか、今になつてもよく判らない。母親が撰んだのだらうとはほぼ確實だと思ふ。倅が云ふのも何だが、母親の本の趣味には些か文學少女めいたところ(たとへば“赤毛のアン”)がある。それとスペース・オペラを結ぶのは無理がありさうにも思へるんだが、引つ込み思案で内向的な息子(わたしのことですよ、念の為)に空想の樂しみを教へる積りだつたのだらうか。

 小説を讀む習慣が出來たのはおそらくハミルトン・野田元帥のコンビに出会つてからで、ドクター・ジョン・ドリトルやクリストファ・ロビンやレミュエル・ガリヴァー船長には申し訳ないが、今風に云へばプレ讀書期の主役たちなのは間違ひない。 そちらに邁進してゐたら、もしかすると英文學を志したかも知れないとも思はれる。まあこれは空想で、實態はそこから吉川英治の『織田信長』だつたり、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』だつたり、田辺聖子の“カモカのおっちゃん”や池波正太郎の“鬼平”に進んだから、娯樂としては兎も角、讀書の正統ではなかつたよね。

 参考までに云ふと、これらの本はおほむね母親の藏書…は大袈裟だな、母親の本棚にあつたのを手当り次第に讀んだ結果であつて、ここに詩集がまつたく無かつたのは、思ひ出しても不思議でならない。萩原朔太郎中原中也上田敏谷川俊太郎も(かれの名前を知つたのはチャールズ・シュルツ描く“Peanuts”の翻訳者としてだつた)、“柳多留”も“百人一首”も、“イーリアス”や“オデュッセイア”も本棚に無かつたのは何故だらう。わたしが詩に殆ど不感症になつたのは、これが原因にちがひない。今讀んでも…川柳や狂歌で笑ふのはわたしの娯樂のひとつである…理窟が先立つて仕舞ふもの。

 中學高校の6年間は司馬遼太郎池波正太郎、それからE.E.スミスの“レンズマン”に熱中した。司馬で云へば『国盗り物語』『燃えよ剣』『翔ぶが如く』『坂の上の雲』『尻啖え孫市』『義経』『功名が辻』『世に棲む日日』を。池波は云ふまでもなく“鬼平”に“仕掛人”に“剣客商売”、勿論『真田太平記』と『雲霧仁左衛門』も欠かさなかつた。

 さうだ。探偵小説を忘れてはいけなかつた。ドイルの“ホームズ”…アイリーン・アドラーほど魅力的なヒロインが外の探偵小説にゐるだらうか…、クリスティ女史の『オリエント急行殺人事件』『アクロイド殺害事件』『そして誰もいなくなった』、クイーンの“國名”ものと“ドルリー・レーン”もの。ヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』『グリーン家殺人事件』『僧正殺人事件』…さう云へば江戸川乱歩横溝正史を代表とする日本の探偵小説には手を出さなかつた。漠然と探偵小説は洒落たものでなくてはならぬ、と感じてゐたのだらうな。

 後は漫画ですね。記憶に残るのを順不同で挙げると、『うる星やつら』に『めぞん一刻』(高橋留美子)、『アリオン』(安彦良和)。『風の谷のナウシカ』(宮崎駿)は途中で投げ出した。『童夢』と『AKIRA』(大友克洋)、『サイボーグ009』(当時の名義は石森章太郎)、『キャプテン・ハーロック』(松本零士)、『ドカベン』(水島新司)、『コブラ』(寺沢武一)、『夢幻紳士』に『クレイジーピエロ』(高橋葉介)。外にも『スケバン刑事』(和田慎二)や“紅い牙”のシリーズ(柴田昌弘)、『V☆Kカンパニー』(山口美由紀)、『ライム博士の12ヶ月』(坂田靖子)、『前略・ミルクハウス』(川原由美子)と、少女漫画を手にしたのもこの時期だつた。漫画ではないが、集英社コバルト文庫は漫画に近い感覚で讀んだ。新井素子氷室冴子、大和眞也。但し新井素子早川書房から出した『…絶句』が一ばん面白かつたけれど。

 かうして眺めると、例外は認めるとしても…“ホームズ”がさうですね…、長篇(小説)嗜好がはつきりしてゐるのは、自分でも驚いて仕舞ふ。正直なところ、今でも短篇小説は苦手で、一連の“私本・源氏物語”(田辺聖子)は大好きだが、あれは“源氏物語”の枠を使つた連作だから、純然とした短篇小説とは呼びにくい。但しエセーは別枠だつたらしい。前述の“カモカのおっちゃん”や池波のエセーがさうだつた。池波のエセーには恩義があつて、何しろ[藪]や[たいめいけん]はかれに教はつたから、大恩と云つていいかも知れない。尤も文章自体はあまり好みではなかつた。後年、北大路魯山人の『魯山人味道』を一讀して、あれは著者一流の厭みへの反發だつたと気がついたのは鈍いのか、池波に触れたのが早すぎた所為か。

 學生でなくなつた頃から、讀む対象が小説からエセーに移つた。田辺聖子池波正太郎だけでなく、司馬遼太郎の“街道をゆく”…『坂の上の雲』を再讀した時、そつくりに思へたのが不思議だつたなあ…や伊丹十三がそれで、ことに伊丹の『ヨーロッパ退屈日記』には驚いた。きざが厭みと無縁に文章が成り立つのを知つたのは、この才人のお蔭である。同時期かそれより少し遅れて讀みだしたのが丸谷才一。最初に手にしたのは『裏声で歌へ君が代』(新潮社の函入り装幀)だつた筈だが、はつきりしない。若造には早かつたのでせうな。但しその文章はわたしの興味を弾くのに十分でもあつたらしく、手に入る随筆を片端から讀んだ。實に面白かつたが、この作家の本領は矢張り長篇小説と評論で、『女ざかり』や『輝く日の宮』で見せた繊細で花やかな技法…確か筒井康隆が“ディケンズ的な頽廃”と絶讚した筈だ…、『忠臣藏とは何か』で示した仇討ちとカーニヴァルの融合は、いづれを取つても最良の藝、文藝と呼ぶに足る。

 その丸谷から枝をわけるやうに手を出したのが吉田健一…『私の食物誌』や『酒肴酒』と、檀一雄…『檀流クッキング』に『美味放浪記』と、内田百閒…『阿房列車』に『百鬼園随筆』『御馳走帖』『東京焼盡』で、優れた書評家は必ず知らなかつた面白い本を教へて呉れるのだな。尤も吉田には少々手子摺つた。癖のあるヰスキィのやうな文章なので、こちらとの調子が合ふまではつつかへて仕舞ふことがある。その所為だらう、『金沢』は未だに讀み了へられない。ゆつくりと頁を進めるうち、具合がよくなつたのはいいが、その頃には最後の頁が近いなんてこともあつた。

 丸谷からの分岐ではない作家もゐて、女流である。高村薫塩野七生。どんな切つ掛けだつたかは記憶が曖昧になつてゐる。初めて讀んだ塩野の本が『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』なのは確實。題名がどうにも少女趣味にも思へたが、詳しく知らない時代の、詳しく知らない地域の、併し強烈に面白い人物…チェーザレマキャヴェッリダ・ヴィンチと同時代に生きた…の描冩は鮮やかで、續けて『コンスタンティノープルの陥落』『レパントの海戦』に手を出したのは筆者の力量といふべきか。但し塩野の代名詞とも呼べる『ローマ人の物語』はカエサルからアウグストゥス辺りで離れた。ローマ帝國が興味の範疇でなかつたのが原因だから、彼女の責ではない。さう云へば高村と塩野には、がつしりした長篇小説を書く腕力と、エセーが今ひとつといふ共通点がありますな。

 女流小説家であれば、宮部みゆきも挙げておかう。『レベル7』や『龍は眠る』は讀ませて呉れながらも詰めが甘つたるくて、弱つたのだが、『蒲生邸事件』が凄かつた。史實を題材(舞台は2.26事件の当日)にした苦みが、最後のあまさへと巧く絡んで、終章はもつと切り詰めてよかつたかとも思へるが、讀後感が非常によかつた。さういふ甘さを半ば逆手に取つたのが『図書館戦争』(有川浩)だらう。骨組みはしつかりしてゐて、到るところにチョコレイトやクリームがコーティングされたやうな構成は、本來重苦しくなる筈の“検閲”といふ主題への工夫でもあつた筈だが、それ自体が幕間の樂しみでもあつた。ああいふ作り込みは男性だとまあ無理だし、女流だつて余つ程耳がよくなくちやあ、ただの滑稽で留まると思はれる。

 と、ここまで書いて気がついたことがある。ひとつには海外の作家が極端に少ない。R.B.パーカーの“スペンサー”ものやヒギンズの『鷲は舞い降りた』、ライアルの『深夜プラスワン』、恰好をつけられるとしたらプラトンの“対話篇”とマキャヴェッリをほんの少し程度で、ダンテもジョイスもシェイクスピアチェーホフドストエフスキーもエミリとシャーロット・ブロンテガルシア・マルケスボルヘスも(今のところ)縁がない。もつと顕著なのは文學…古典からの距離で、『源氏物語』も『枕草子』も『方丈記』も『徒然草』も“新古金”を代表にするが和歌集も、『仮名手本忠臣藏』や『奥の細道』だつて遠い。近代に入つても森鴎外志賀直哉芥川竜之介太宰治からは遠いままである。例外は内田百閒と師匠筋の夏目漱石永井荷風谷崎潤一郎が精一杯。さうだらうなと思つてはゐたけれど、かうやつて文字にすると、本…讀書が好きだと称するのも憚られる気分になつてくる。ただまあ、今さら文學と斜に構へるのも莫迦げた見栄といふものでせう。折角余生に入つたんだもの、さういふ娯樂に身を委ねてもよからうと考へてゐる。『源氏物語』や『神曲』のやうな大物もいいが、まづはホメロスだらうか。これなら岩波文庫に松平千秋の優れた翻訳が収められてゐる。