閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

071 始めました

 気温が高くなると食慾がぐつと落ちる。それで大体は素麺に頼る。樂だもの。尤も樂ではあつても毎日毎食を素麺に頼るわけにもゆかず、勿論『檀流クッキング』(檀一雄/中公文庫ビブリオ)を参考に、“少しく奮闘して、さまざまの薬味を”用意すれば事情は異なるかも知れない。サラシネギからシイタケ、鶏の挽肉を経て、ダイコンおろしに到る七品の藥味を並べあげるくだりは、葱を刻むやうなリズムで、痛快と云ひたくなつてくる。序でに腹も減つてきて、かういふのを文章の力と呼ぶのだらうな。

 蕎麦をゆがくこともある。ただ残念ながら蕎麦には藥味の樂しみは少なさうで、葱に山葵、七味唐辛子、後は精々天かすか知ら。呑んだ帰りの立ち喰ひ蕎麦屋で、ざる蕎麦一枚に温泉玉子を落すと、咽の通りが宜しいのを思ひ出した。玉子以外はどれを取つても使ひ過ぎないのがこつで、極端な味を加へるのは蕎麦に似合はない気がする。世の中は広いから、蕎麦を啜るにはこれが無くちやあと、わたしの知らない藥味があるのかも知れない。何となく損をしてゐるのではないかと思へてきた。

 併し暑い季節に嬉しくなるのは冷し中華ではあるまいか。…と書いた時、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の頭に浮ぶ冷し中華はどんな姿だらうか。わたしの場合は浅い器に冷たく〆た中華麺。酢醤油系統の酸つぱいたれで。そこに錦糸玉子に胡瓜と煮豚の細切りを乗せ、紅生姜を少々添へたのを“基本の冷し中華”だと考へてゐる。

 尤もこの場合の“基本”は単に刷り込みの結果であつて、そもそも冷し中華は曖昧な料理である。名前に中華と入つてゐるのに發祥は我が國で、料理の常でいつ頃に成り立つたのかは判然としないけれど、漠然と大正末から昭和初期には原型があつた。仙台説と神田説が有力といふ。どちらかが正しいのでなく、別々の事情と経緯があつたのだらうな。いづれもとあるお店の考案になるさうで、これが冷し中華の曖昧を深めてゐる。作り方も味つけも、時間によつてコンセンススを得たわけではないから、色々な冷し中華冷し中華として出してもかまはないことになり、冷し中華

「夏に食べる冷たい中華麺料理の一種」

といふ曖昧な立場のまま、現在に到つてゐる。幸か不幸かの判断は六づかしいが、素麺や蕎麦、或は饂飩(さう云へば饂飩は冷たく〆て食べたいとは思はない。何故だらう)のやうな安定感に欠けるといふべきか、勝手工夫の余地がたつぷり残されてゐると理解するべきか。

 前述の通り、わたしは酸味のあるたれ、錦糸玉子、煮豚、胡瓜が冷し中華の基本と考へてゐる。併し我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から異論が出るだらうことは当然の話で、茹でもやしが慾しいとか、寧ろハムが好もしいとか、木耳の歯応へを無視してはならぬとか、若布を抜いてどうするとか、海月を欠かすのは論外だとか、紅生姜の代りに辛子を用意すべきとか、マヨネィーズを添へなくちやあとか、胡麻たれで喰ふのが旨いとか、トマトがいい具合なのだとか、思ひ浮ぶままに挙げてもかうだから、全國各地の冷し中華がどんな状況なのか、想像するのも六づかしい。たとへば『ドバラダ門』(山下洋輔/新潮文庫)には鹿児島は天文館通りの[呑竜]で冷し中華を貪り喰ふとある。年中食べられるさうで

 『しばらく前におれが「全日本冷し中華愛好会」というものの会長をしていたときにそれを面白がったマスターの中村信一郎さんがラーメン屋の主人をそそのかして冬でも作るようにしてしまったのだ』

 とある。註を入れると、“中村さん”は近くのジャズ喫茶[コロニカ]のマスター。ジャズと冷し中華の運命的な出会ひが記されてゐるわけだが、残念なことにこの[呑竜]で山下が喰つた鹿児島式冷し中華がどんなだつたかまでは判らない。何しろ薩摩だもの、黒豚と薩摩揚げは欠かせなかつたんぢやあないかとか、焼酎に適ふたれの味はどんなだらうとか、色々想像が膨らむけれど、註文したら案外と当り前の仕立てかも知れず、早い話が行つて喰つてみないと謎は解けない。博多でも呉でも高松でも米子でも神戸でも名古屋でも金沢でも宇都宮でも郡山でも米沢でも盛岡でも弘前でも小樽でも行つて喰はなくちやあ判らないのは同じ事情の筈で、(厭な言葉だが)複数の町が手を組めば、地域興しの種になりさうな気もされる。たとへば延岡で冷ツ汁風、氷見で蛍烏賊、松本で味噌、水戸でトマト、さういふ工夫があれば、中には首を傾げる結果になるかも知れないけれど、冷し中華は夏の豊かな食事に繋がるんではなからうか。だとしたら、あの“冷し中華、始めました”の幟はその象徴になる。