閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

072 思ひ出すまま

 旨かつたかどうか、そこは曖昧なのだが、何となく記憶に残る食べもの呑みものを、思ひ出すままに挙げてゆく。


 まづは心斎橋にあつた獨逸料理屋で出されたグリンピースのソップ。

 今もわたしはグリンピースが苦手なのだが、これは實に旨かつた。塩胡椒であつさりと仕立てた透明のソップで、鮮やかなグリンピースが敷き詰められてゐた。


 グリンピース繋がりで中之島図書館の食堂で喰つたオムライス。

 第一ホテルだつたかが入つてゐた筈だから、旨いに決つてゐる。当時で確か四百円くらゐ。些か寒々しい造りと記憶してゐるが、廉価で贅沢な食事だつた。


 天五中崎商店街にあつたバーのギムレット

 夜中にジャック・ダニエルズを二はい、呑んだ後に作つてもらつた。今もわたしにとつて、ギムレットの味の基準になつてゐる。刷り込みの一種なのだらうと思ふ。


 市川の定食屋で喰つた冷し中華と壜麦酒。

 特段に美味だつた記憶はないのに、無闇に註文したのは何故だらう。いつの間に覚えられたか、女将さんに“いつものですか”と訊かれて、照れ臭かつたなあ。


 沖縄市の食堂で喰つたポーク玉子定食。

 これも特別に旨かつた記憶はない。お味噌汁の代りに沖縄そばが添へられ、六百円とかそんな値段だつたと思ふ。オリオン・ビールをあはせたかどうかは忘れた。


 同じく沖縄市の別の食堂で喰つた野菜そば。

 野菜炒めをたつぷり乗せた沖縄そば。熱い丼にこーれーぐすを振つて啜るのは、宿醉ひの晝にまつたく効果的だつた。


 那覇で喰つた屋台のラーメン。

 沖縄のめしは大体、舌に適つたが、これは唯一の例外。ラーメンを積極的にまづいと思つた記憶は他にない。あれには笑つた。


 ラーメン續きは、武田神社から甲府驛に到る道中にあつたラーメン屋で喰つた味噌ラーメン。

 空腹だつたのに、他にめしを喰へる場所が見つからなかつた為の緊急避難。その割りにまあ惡い印象が残つてゐない。空腹こそ最上のソースといふのは眞實である。


 大久保にあつた[かぶら屋]のつくねの串焼き。

 下拵へを色々工夫して、蓮根を隠したり、生姜を効かせたりして、歯触りや味はひを変へてくるのが樂しみだつた。[かぶら屋]自体は今もあるのだが、八釜しくは云ふまい。


 田町にあつた[清瀧]のお刺身盛合せ。

 四点盛と謳つてゐるのにいつも二点多かつた。何が出るか判らないけれど、大体の場合はお酒に適ふ組合せで、實に有難かつた。


 中野にあつた[山ちゃん]のもつ煮と苦瓜のピックルス。

 “こてこて”を冠にするだけあつて、非常にとろりとした仕上げ。ホッピーでこいつをやつつけてから、泡盛に切替へてピックルスがルーティーンだつた。串焼きの店だつた筈だが、そつちを喰つた記憶は残つてゐない。


 他にもかういふ例は幾らもあつて、帰省の際、新大阪驛構内の饂飩屋で啜つたきつねうどん。都立家政の名前を忘れた呑み屋で喰つたトマトとモッツァレラ・チーズのサラド。中井の[ぺいざん]で喰つたハンバーグやフライ。同じく中井の何やらで喰つた野菜炒め定食。諏訪の[丸高藏]でのお味噌汁。或は登美の丘はサントリーの葡萄酒藏に併設されてゐたレストランでのポーク・ソテー。横浜スタジアムでのヱビス・ビールと[崎陽軒]のシウマイ弁当はちよつと趣旨から外れるが、野球見物をしながらの呑み喰ひは素敵なものです。それから試合終了後に中華街の隅つこで喰つた焼そば(焼いてあんかけだつたか)と紹興酒。横濱のどこだつたかの呑み屋の記憶は曖昧だが、肴がひどく旨かつたのは忘れ難い。今はない、または足を運ぶ機会に恵まれないところに絞つて、思ひ出すままに挙げてみた。