閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

075 安直に敬意をば

 尊敬する檀一雄は『檀流クッキング』(中公文庫ビブリオ)の中で“豚の舌だの、豚のモツだの、さまざまの内臓”を食べる工夫を紹介するにあたり

「日本人は、清楚で、潔癖な料理をつくることに一生懸命なあまり、随分と、大切でおいしい部分を棄ててしまうムダな食べ方に、なれ過ぎた」

と嘆いてゐる。葡萄牙で露西亞で蒙古で“低廉の佳肴”に馴染み尽した小説家が云ふのだから、説得力がちがふ。

 

 檀がその“ムダな食べ方”を残念がつたのは、四十年余り前の話だが、翻つて、現代の我われはどうだらう。ちよいと品下る町の路地を覗くと、もつ焼きの暖簾を見掛けるのは珍しくなくなつたし、もつ鍋が流行つたとか、そんな記憶もあるから、内臓を食べるのはそれなりに、馴染んではきてゐるのではないかと思ふ。尤も家で臓物を煮込み、或は炒め、また焼いて食事にするまで到つてゐるかどうか。

 

 まあ八釜しいことは、云ひますまい。

 

 わたしが臓物を食べるのは、もつぱら酒精のお供である。安直な呑み屋で、焼酎ハイやホッピーを呑みながら、ハラミやタン、ハツ、カシラなんぞの串焼きを頬張る樂しみは、曰ク云ヒ難イ。無理に云へば、おれは今、動物を喰つてゐるぞ、といふ気分。鶏の唐揚げやとんかつやビーフ・ステイクだつて、動物なのだが、もつと原始的な感じがする。但しもつ焼きはお店…焼き手によつて、口に適はないこともあるから、ふらつと入つたお店で、いきなり焼きものを註文するのは、どうしても躊躇を覚える。

 

 そこで登場を願ひたいのがもつ煮である。臓物を大根や人参、牛蒡に蒟蒻と一緒に、たつぷり時間を掛けて焚きこむ調理法がいつ頃、どこで成り立つたかはよく解らない。檀の嘆きから想像を巡らせ(些か問題のある云ひ方をす)れば、貧民賎民が棄てられた獸を何とかして食べる為の工夫ではなかつたか。味噌や生姜を多用するのが、匂ひ消しだつたのだなとは容易な理解で、おそらく明治以降に少しづつ、整へられてきたのだらう。整へられたのは廉で旨いからにちがひなく、でなければとうに、その命脈は尽きてゐた筈だ。現代の我われにとつて、まことに喜ばしい次第。

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 先づ、安い。三百円から四百円くらゐが精々なのだから、嬉しいではありませんか。また値段から見るとたつぷりであつて、これも嬉しい。取り急ぎ、壜麦酒ともつ煮を註文しておけば、後は余裕を持つて、何をつまむかの検討に入れる。もつ煮で何が好もしいといつて、お店によつて味はひは異なるものの、殆どの場合、うまいこと。

 

 味噌仕立て。

 醤油仕立て。

 どろりと粘つこいの。

 さらつとしたの。

 

 外にも牛すぢが入つてゐたり、鶉の玉子が隠されてゐたり、蒟蒻の切り方に工夫を凝らしたりと色々のちがひがあつて、それぞれにうまい。そんなら“殆どの場合”なんて、但し書きは要らないんではないのと訊かれるだらうから、一ぺん甲府で喰つた、馬のもつ煮には閉口したんですと書きつけておかう。馬肉自体は美味いものだから、その臓物だつてまづいとは考へにくい。偶さか食べたのが、よくなかつたのだ、きつと。甲州には鶏もつ煮といふ旨い食べものもあるのだし。

 

 その鶏もつ煮は兎も角、もつ煮の多くに共通するのは、器に盛られた後、刻んだ白葱をどつさり乗せることかと思ふ。かういふのは混ぜないのがいい。臓物の熱くてごつてりしたところを、白葱の冷たさと辛みで受けるのが樂しいんである。それに色濃く焚かれたもつを覆ふ葱の白さは、眺めて嬉しい対比ぢやあありませんか。なので七味唐辛子を振るのは、中盤を過ぎてからにする。これは一体にわたしが唐辛子を得手としない事情もあるから、この辺りは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の好みにあはせてもらひませう。

 さう。ここで少し脱線すると、もつ煮には案外と葡萄酒が似合ふ。なーに、煩いことは云はず、潜り込んだお店に葡萄酒があれば、一ぱい頼めばいい。好みは分かれるだらうが、南米とかイベリヤの、少々もつさりした赤が適ふと思ふ。口の中が野暮つたくなりさうだと不安になる向きには、からい白でもよささうだが、安直なお店だと、呑みくちが柔らかくて、甘いものしか、用意されてゐないかも知れない。一ぺん、鶏もつ煮を甲州の葡萄酒…白は大体あまいから、赤…でやつつけてみたいものだなあ。

 さて焼酎でも葡萄酒でも、呑みながら食べすすむと、残りは少なくなる。必然的に、さうなつてくる。器の底には、もつと大根の欠片と葱の切れ端と、つゆと呼ぶのか出汁と呼ぶのか、ソップなのか煮汁なのか、まあさういふものがあつて、理想を云へば、ここに熱いごはんをほんの少し入れ、残らず啜りこみたい。併し廉価安直の呑み屋に、そこまで求めるのは、無理が過ぎる。さういふ樂しみは家で臓物を焚く週末に取つておいて、矢張り汁気も含めて、もつ煮は綺麗に食べ尽したい。卑賎の食べものを美味いものへと洗練さした先達へ、敬意をば示す、これが最善で唯一の方法であらうから。