閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

076 嗚呼紅生姜

 東都に棲みだして二十年ほどになるが、“紅生姜の天麩羅”は殆ど見掛けない。近畿人には馴染みのある食べものだと思ふ。なに、捻りも何もあつたものでなく、一枚の紅生姜を天麩羅に仕立てたもので、そのまま食べることがあれば、饂飩に乗せたりもする。旨いことはうまいが、どんな味だと訊かれたら、何の変哲もない、紅生姜の味ですよと応じざるを得ない。してみると、紅生姜の天麩羅を旨いと思ふのは、単に馴れの問題か。

 併しそれを云ひ出したら、牡蠣も雲丹も海鼠も旨いと思ふのは馴れであらう。欧州で烏賊や蛸の旨さを力説しても、希臘人か西班牙人が相手でなければ理解される期待は薄いにちがひないし、墨西哥人がトルティーヤを用ゐた種々の料理への愛情を語つても、こちらとしては曖昧に微笑むしか出來ない。我われの“旨い”は何処に棲み、何に馴染んだかで変るといふ当り前の前提に立てば、“紅生姜の天麩羅”をわたしが旨いと思ひ、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏(の近畿人ではない方)が首を傾げたところで、さほどの不思議とは云へなくなる。

 ここで念を押しておきたいのは、東都でも紅生姜自体は牛丼屋に行けば、ありふれてゐる。欠かせないですな。わたしの場合、丼の隅に配置し、定食で云ふお漬物のやう…いや寧ろカレーライスの福神漬けのやうに扱ふ。 牛丼はあれで中々、味の濃いものだから、卵でまろやかにしたり、紅生姜の辛みで、舌の具合を調へる必要があるのだ。

 と書いて、前言を翻しかねないことを云ふと、紅生姜の天麩羅の味は確かに紅生姜なのだが、牛丼屋の紅生姜ほど辛みは感じない。衣が抑へるのか知ら。さう云へば牡蠣も、生と天麩羅では、味の系統が同じなのは当然として、味はひは随分と異なる。当り前の話と笑はれるにちがひないが、牡蠣を頬張つて旨いうまいと歓びながら、味はひの差違まで意識出來るだらうか。ここでの“出來るだらうか”は、文章技法で云ふ反語である。うまいものに夢中になつて、ややこしい考察に浸れる余裕は持てないのが当然だし、また正しい態度でもあつて、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、その辺りはご理解賜りたい。

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 それで何の話だつたか。さう、紅生姜(の天麩羅)でしたね、續けませう。

 東都でも、紅生姜の天麩羅を食べる機会が絶無ではない。一部の立ち喰ひ蕎麦屋では種もののひとつとして出すところがある。コロッケ蕎麦より余程うまいと思ふんだが、さうさうこちらの都合よくは進まない。紅生姜の天麩羅が適ふのは、大坂風の饂飩だから、六づかしいのだらう。頑固は損だから、一ぺんくらゐ、東京饂飩に乗せてみたい気もするが、いつになるかは判らない。

 ここまで書いて、思ひ出した。牛蒡のかき揚げといふのがありますな。笹掻きにしたのを揚げたやつ。あれと同じやうに仕立てた紅生姜の天麩羅を何度か、食べたことがある。大坂式に較べても辛みは更にやはらかく、生姜の風味を好むひとには物足りなく感じるだらうが、決して惡いものではない…といふより、おかずにするなら寧ろ、この方が旨い。生姜をおかずにするのですかと云ふなら、なりますよと応じつつ、つまみと云ひかへませうか。麦酒や焼酎に似合ふ。京橋(大坂の方である)の小さな呑み屋で、揚げ置きしてあつた、紅生姜の天麩羅をフライパンで温めなほして、ほんの少し、焦げ目をつけ、出してもらつたことがあつた。泡盛(黒糖焼酎だつたかも知れない)の水割りでやつつけたあれは、確かに旨かつた。牛蒡のかき揚げ流ではなかつたけれども、煩いことは云はなくていいでせう。一枚ものでもかき揚げでも、紅生姜の天麩羅は旨いもので、それを気がるに食べにくい東都はこまつたものだなあと、牛丼に紅生姜を乗せながら、ふと考へた。