閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

078 ありふれた有能

 正しくは魚偏に生と書くらしい。

 鮭のことである。

 色々細かい意味のちがひがあるさうだが、まあその辺は云はない。気になるなら、ご自身でお確かめなさい。

 鯵や鯖、鰯と並んで、“ありふれたお魚”四天王の一角でせう。惡くちではありませんよ。ありふれてゐるのは、旨くて、漁獲があるからで、嬉しい話ぢやあないですか。

 もうひとつ。様々の食べ方が用意されてゐることも、四天王の素晴らしい共通点だらう。加へるに四天王は、食卓の主役を張れもするが、時と場合に応じて、脇を渋く固めも出來る。変幻自在の名優と云ふべきか。鯛や鮪、鰤の美味さは十分に理解するが、かういふ闊達さの点では、一歩を譲らざるを得ない。その変幻自在自由闊達な四天王の中、半歩…一歩、抜き出てゐるのが鮭で、鯵鯖鰯支持者からは、異論が呈されるだらうか。

 ところで鮭と云へば食べもの。なのは当然として、上代ではそれだけに留まらなかつたらしい。何で目にしたか、記憶にないから、そこは控へるが、越と呼ばれた地域、今で云ふ新潟とかあの辺りには、漁撈族が棲んでゐて、主な獲物は鮭であつた。勿論、喰ふ。だけでなく、皮を履き物や衣服に用ゐもしたらしい。徳川光圀は鮭の皮が大好物(那賀川の鮭は美味なのださうな)で、厚さ一寸の鮭の皮があれば、三万石だかと交換してもいいとか、呟いたさうだが、さういふ嗜好の持ち主からすると、越の漁撈民は度し難いだらうな。懲らしめてやりなさい、なんて云ひかねないぞ。気持ちは判らなくもない。鮭の皮は旨いもの。併し厚さ一寸となると、勘弁してもらへないかとも思へる。ビーフ・ステイクでもあるまいに。…ええと、何の話だつたか知ら。

 さう。鮭の有能。食糧としては勿論、生活の軸になつてゐた時代があつたわけで、遊牧民の馬や羊、エスキモー乃至イヌイットのアザラシといつた例はあるが、魚類がさうなつたのは、鮭くらゐではなからうか。海に棲むといふ点だけを見ても鮭に対抗出來たのは鯨くらゐの筈(我われのご先祖の鯨の用ゐ方は、巧妙をきはめてゐた)で、鯵も鯖も鰯も、さういふ応用は出來なかつた。それが栄光に値するかどうかは、鮭諸君に訊かねばならないとして、我われのご先祖にとつて、こんなに便利な魚はなかつたと断定して、反論は出ないのではないか。

 實際、鮭といふ食べものは、現代に到るまで、その有能さに陰りはなく、食ひしん坊を悦ばし續けた。でなければ「火をたっぷり真赤におこして薄く灰をかけ、そして少し遠く離して上から日本紙をかぶせてこんがりと焼きあげ」た鮭の身に、「牡丹の花びらのような淡桃色」といふ美しい譬喩は決してうまれない。或いは「サケはどこもかしこもおいしい魚だが、ことさら、その頭のところは、おいしい軟骨で埋まっているようなものだから」と、三つでも四つでも買つてきて、「最も廉価な、地上の仕合わせが、たちどころに」實現するなどと昂奮も出來まい。

 うーむ。

 こつちまで、昂奮してきた。

 辰巳浜子の『料理歳時記』と、檀一雄の『檀流クッキング』からの引用だもの、当然と云へば当然として、ここで不意に、美味い鮭を食べさすお店は、存外に少ないんではないかと思ひ当つた。お弁当の添へもの、コンビニエンス・ストアのおにぎり、フライのサンドウイッチ、回転寿司屋の種辺りが精々で、気のきく呑み屋なら、マリネーくらゐは出すだらうが、分厚い切り身の塩焼きやちやんちやん焼き、氷頭なます、三平汁にルイベにメフン(内臓の塩辛だといふ。美味からうな)に燻製。単純な割烹は勿論、凝りに凝つたとしても…檀はスモークト・サモンを、「人間の味わい知る飲食の喜びのうちでも、完璧に近」い、「人工と自然のきわどい合体」と、熱烈に讚してゐる…、まつたく美味いのだから、シェリーや葡萄酒、お酒と共に、最初から最後まで鮭尽しも、商ひとして成り立つにちがひないのに、何故だらう。ひよつとして、一寸厚の皮を用意出來ないから、水戸の方向に遠慮してゐるのかも知れない。