閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

080 あぢさゐ

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には既によくご存知だらうが、この手帖では、時事的な話題をほぼ、取上げない。それは方針であるのだが、その方針を採るにしても、採る理由があるもので、今回はさういふ話。

 この稿を書いてゐる現在、巷間で八釜しいのはたとへば、米國と北鮮の会談がどうなるかとか、何とか學園へのいちやもんとか、或は開幕が近いワールドカップ、プロ野球の交流戰やエンゼルス大谷翔平とか、そんなところではなからうか。さういふ話題に興味を持たないわけではない。思ふところだつて、多少はある。と云ふと

「だつたら、書けばいいぢやあないの」

と切り返されさうで、確かに誤りではないのだけれど、事情はそんなに単純でもないのです。

 何しろ、その“思ふところ”は、ごく断片的な感想に過ぎない。夏休みの絵日記でもあるまいし、大谷翔平撰手は凄いと思ひます、と書いて何になるのか知ら。さういふウェブログが、少なからずあるのは事實だが、わたしが眞似する理由にも切つ掛けにもまあ、ならないよ。

 さう云ふと、よし名案があると張り切つて

「断片を断片のまま、書けばいいのだ」

と提案する方が出てくるかも知れないが、さういふ反射的な書き方なら、Twitterにでも投稿すれば済む話で、何の為に[閑文字手帖]を書いてゐるのか、判らなくなる。まあこの手帖が、果してTwitterよりましなのかどうかは、保証の限りではないけれど。

 「ならば、その“断片的なところ”を取り纏めるのはどうです」

と追討ちがかかる気がする。尤もな指摘である。但しそれを求められるのは酷な話であつて、当り障りの少なさうなところだと、栃ノ心大関昇進に触れるとしませう。その場合、高見山小錦にも触れたくなるし、他の大関との比較もしたくなる。或はかれの故郷であるジョージアで、相撲がどんな風に受け止められてゐるか(初優勝の時は、天皇賜杯が、随分大きな話題になつたらしい)、また今の角界で、我われは外國人力士をどう受け容れるか、などと書きたくなるだらう。そこで翻ると、わたしはさういふ取り纏めにひどく時間がかかる。これを遅筆と称するのは、井上ひさしに礼を失するか。

 簡単に云へば手詰りなのだが、もう少し自分に都合よく考へませう。時事的な話題を取上げるにしても、批評的な視点は欠かせない。大谷翔平栃ノ心の話をするとして、かれひとりでなく、野球や相撲全体、或はスポーツ全般、もつと云ふなら、スポーツの持つ遊戯性や呪術性などから俯瞰しなくては、その批評性は成り立たない…が断定的に過ぎるなら、成り立ちにくい。前面にだす必要があるとまでは云はないとしても、さういふ視点がなければ、それは感想文の枠に止まるでせう。それでここから具合が惡くなるのだが、その批評性を含めつつ、時事話を書けるだらうか。無理をして書いたとしても、即時性が犠牲になるのは確かな上、それを含めても、浅學菲才の身には余るのははつきりしてゐる。矢張りわたしが、この手の話題に触れるなら、季節の花くらゐにするのが、安全なのであらう。

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あぢさゐの 色かはりゆく 巷かな