閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

083 ラヂオの話

 テレビジョンを持つてゐない。地上波がデジタル放送に移行した前後、壊れて仕舞つた。それで手元にあつたポケットラヂオに頼つたら、ほぼ不便がないと判つたので、それきりになつてゐる。

 小中學生の頃、ラヂオはわたしにとつて、非常に身近なメディアだつた。思ひ出すままに挙げると、ABC「おはようパーソナリティー 道上洋三です」(先代は中村鋭一だつた)、同「ヤングリクエスト」、MBSヤングタウン」(月曜日に明石家さんま、火曜日はオール阪神巨人、水曜日は原田伸郎、木曜日は島田紳助、金曜日が谷村新司ばんばひろふみ)、KBS「ハイヤング京都」(聴いてゐたのは越前屋俵太)、OBC「アニメトピア」(田中真弓島津冴子)だつたか。

 高校生になるとFM放送も聴くようになつて、但し当時の大坂で聴けたのは、FM大阪NHK FMだけだつた。東京でのJ-WAVE開局と成功を追ひ掛けて、FM802が開局したのは昭和の末期か、平成初期だつたか。FM802の開局直前、女性の乳首をつまんだ冩眞に、“左にひねらんかい”といふコピーを打つた新聞広告は忘れ難い。高校生だつたわたしが聴いたのは、専らFM大阪で、日曜21時からの「日清パワーステーション」は欠かせない番組だつた。ご存知ない我が年少の讀者諸嬢諸氏に説明すると、これはライヴハウスの名前でもあつて、そこでのライヴの録音放送。爆風スランプ米米クラブといつた日本のポップスだけでなく、ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースなんて大物も登場してゐた。豪華だつたなあ。

 そこから暫くラヂオから離れたのは、特段の理由があつてではない。呑むことを覚え、異性とのお付合ひを経験し、就職や転職を経て、いつの間にか距離が出來たとしか、云ひ様がない。それに気合ひを入れて、ラヂオ…ことにFM放送を聴くのは、案外に面倒なもので、わたしの場合、『FMステーション』と『FMレコパル』を購讀して、番組を事前に調べ、録音する場合はカセットテイプも買ふ。テイプの話を始めると、切りがなくなるから、踏み留まるとして、ノーマルかハイポジションかメタルか、番組とお小遣ひで調整するのは中々に困難だつた。録音したらインデックスを作る。前述のFM誌には、わたせせいぞう鈴木英人のイラストレイションを使つたインデックスがついてゐた。それを慎重に撰び、丁寧に書き込んでやつと完成なので、大変だつたんです。とてもぢやあないが、呑みながらは無理といふものだ。

 今は、ちがふ。冒頭に書いたポケットラヂオは既に壊れてゐるから、タブレットスマートフォンサイマル放送を聴く。使ふのは“radiko”でなければ“らじるらじる”なので、まあ何の変哲もない(オーソドックスだぞと居直る手もあるなあ)アプリケーションと云つていいでせう。それを在宅の時は大体、NHK第1をかけつ放しにする。「マイあさラジオ」から「すっぴん!」、「ごごラジ!」、「にっぽん列島夕方ラジオ」を経て、「Nラジ」といふ流れ。夜はこの時期、文化放送の「ライオンズナイター」かニッポン放送の「ホームランナイター」でプロ野球中継(但し木曜日金曜日はNHK第1)が基本。週末は少々変則的になつて、NHK FMが入つてくる。「世界の快適音楽セレクション」や「ラジオマンジャック」、「きらクラ!」が代表で、祝日に不定期で放送する「今日は1日〇〇三昧」(〇〇には、“アニソン”とか“ブリティッシュロック”とか、色々と入る)も欠かさない。それとNHK FMは隙があれば、N響バイロイト、諸々のジャズフェスティヴァルの(録音)中継を放送するから、油断は禁物である。

 さう云へば民放はAMもFMも、スポーツ中継を除いて、とんと聴かなくなつた。ごく簡単に、コマーシャルがひどく耳障りに感じられるのが、その理由。伊東四朗高田純次が喋るのは聴いて愉快なのだが、それを法律事務所だの中古車買取りだののコマーシャルが全部、削り取つて仕舞ふ。商ひなのは判るんだが、気に喰はない。それにもうひとつ、かけられる音樂の多くが、流行歌なのも気に入らない。NHKはリスナーが高齢なのもあるのだらう、わたしくらゐの世代からすると、びつくりするほど古い歌を平気で流す。美空ひばりは勿論、フランク永井ペギー葉山プラターズエルヴィス・プレスリー。それも『有楽町で会いましょう』や『南国土佐を後にして』だけでなく、こちらのまつたく知らない歌がどんどん流れて、また佳曲が少なからずある。三波春夫の『俵星玄蕃』に驚倒させられた(弟子筋の島津亜矢も唄つてゐる。科白回しは及ばないものの、こちらもいい)のもNHK第1で、かういふ發見は、テレビジョンだとほぼ、不可能だらう。

 ラヂオは“ながらメディア”なのだといふ。食事の用意、洗濯物を干しながら、書きものをしつつ、大体は邪魔にならなかつた経験を思ひ出しても、この指摘は概ね正しい。音が耳に引つ掛つた時だけ、少し集中すればいいのだから、まことに具合が宜しい。ドラマチックな交響樂のやうに、最初から最後まで、引つ掛り續けることだつてあるけれど、その場合は腰を据ゑれば済む。かういふ具合のよさは音樂に限らず、話藝や文藝も含まれてゐて、前者は落語、後者では俳句短歌川柳を挙げれば、何となく想像がつきますよね。かういふの(特に後者)は、映像で見せるのが六づかしからうと思へる。少し話は逸れるが、『小倉百人一首』なんか、成功すれば映像史に残る美しさになるだらうに、和歌と文學の嗜みと映像のセンスが必要だから、こちらは諦めるしかないけれど、音との組合せに絞れば、絶望の恐れは少なくて済みさうな気がする。

 かう書くと、ラヂオは理想的な(面を持つ)メディアと思へてくるが、何事にも難点はあるもので、野球と相撲以外のスポーツ中継にはまつたく不向きでもある。後は驛傳とマラソンが辛うじてましで、サッカーやバレーボール、水泳、スキーにスケートといつた、速さが連續する競技だと、頭の中である程度、その様を浮べながらでないと、何がなんだか判らなくなる。もうひとつ、画としての遊びが豊かな演奏会や演劇となると、云ふまでもなくお手上げ。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを例に出せば(また現地テレビ局の撮り方が、實に巧いのだ)、ああそれは、映像でなくちやあと、同感してもらへると思ふ。裏を返せばテレビジョンが、スポーツやコンサートや舞台の生中継に特化すれば、ラヂオとの共存は可能な筈で、さうなつたら我われの生活も、多少は豊かになるだらうか。淡い希望だが、それまではラヂオに寄り掛りきりになつても、わたしには丸で差障らない。