閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

087 烏賊だけに

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 ニューナンブの頴娃君と飯を喰ふとなつたら、大体は蕎麦屋に落ち着く。ハンバーガーやカレーライスやラーメンを積極的に撰ぶことはなくて、まあ小父さんふたりには、蕎麦屋が似合ひの場所だらうと思へる。それで呑む。ここで呑むのは勿論お酒。玉子焼きや板わさなぞを肴に一献を傾けて、もり蕎麦を一枚。全部で二千五百円とかそれくらゐだから、お午としてはちよいと気張つた値段にも思ふが、毎日毎週でもないから、気にしないことにしてゐる。併しいつもいつも、玉子焼きや板わさで済ませるとは限らない。さうなるのは大体の場合、それが安定してゐるからで、惡くち風に云へば、当り障りのない撰択といふことになる。まづいものが出される心配が少ないと云つてもいい。なのでこの時もさうするかと考へてゐたら、頴娃君が

「お蕎麦とのセットもありますな」

と呟いた。ああさうだなと思つてお品書きを見ると、烏賊の天麩羅蕎麦(お蕎麦は蒸篭)といふのが目に入つて、大きに心を動かされた。烏賊は好物なのが理由の第一。もうひとつ、自分でも珍しいくらゐの空腹を感じてゐたことも理由になる。普段なら食べないだらう天麩羅に心が動いた以上、これを食べない手はないと結論に達したので、躊躇なく烏賊の天麩羅蕎麦を註文した。蕎麦つゆで食べさせるのは感心しなかつたが、天麩羅自体は衣もかるく、結構ですなと云へる仕上り。さうだ、お酒の銘柄を気にするひとの為に云ふと、この時は“大七(純米/生酛)”を一合。頴娃君は“亀齢”だつたかと思ふ。その“大七”は舌に馴染みつつ、妙な後味が残らず、天麩羅の油とも適ふ、いいお酒であつた。但しお蕎麦を一緒に持つてきてもらつたのは失敗。蕎麦同士がぺたりとなつたので、やむ事を得ず“大七”をちよいと振つて、ほぐしながら啜つたら、頴娃君に

「勿体無い眞似を、するものだなあ」

と呆れられて仕舞つた。いかんなあと云つて呉れたら、烏賊の天麩羅だけにねと切り返せたのにと残念に思つた。