閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

090 本の話~あの門の向ふ側

『ドバラダ門』

山下洋輔/新潮文庫

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 小説…なのだらうと思ふ。筒井康隆は解説でこの本を、山下洋輔の“唯一の長篇小説”と記してゐるから、この稿でも小説としておきたい。

 自信はないけれども。

 併し小説が本來、型を持たない文學の形式だとすれば、こんなに小説的な小説も、さう滅多に見られないといふ見方も成り立つだらう。

 自信はないけれども。

 無理矢理に紹介すれば、旧鹿児島刑務所を祖父が設計したと知つたジャズ・ピアニストが、“中空を約十八分三十秒間凝視”して、訳を知りたいと考へた、その経緯の一部始終とでもなる。

 ただかう纏めると、少々風変りな家系小説と受け取られかねず、それではこの本の實態からかけ離れて仕舞ふ。話は現代に留まらず、生麦事件や薩英戰争、西南戰争に跨がり、日本國内に留まらず、米國佛國英國まで拡がり、實在と架空の人間が混ざり、眞實と虚構が混ざり、西郷と大久保と川路と山下家が絡みあひ、時系列は乱され、そこに鹿児島刑務所解体の経緯(このやり取りは、東京政府と薩摩の喧嘩の美事な戯画でもある)や、建築物としての刑務所についての論考まで加はつて、かう書くと今度は、一体全体、何がなんだか判らなくなつてくる。

 但し意図的な混沌はあつても、無自覚の混乱は些かも見られない。そして何がなんだか判らなくなるのは、粗筋紹介を試みたからで、讀み始めると、その“意図的な混沌”に振り回されるのが寧ろ、(かれの演奏を文字で聴いてゐるやうに)快くなつてくる。そしてクライマックスは、それらの混沌が一体となつて雪崩れ込む最後のセッション…實在と架空が、眞實と虚構が、過去と現在が、革命と保守と快感と悲哀が、ひとつに織りまとめられる様は、音樂的であり、映画的でもあり(ことにフリースタイルでドラムを叩く西郷と、スタンダードなピアノの大久保といふ、爆笑させられつつ、説得もされて仕舞ふ対比の美事さは、強調しておきたい)、カーニヴァル的であり…詰り、優れた小説と呼ぶ外になくなる。

 こんな小説を書かれた日には、本業の小説家からすると、えらく迷惑な話ではなからうか。

 といふのが、一讀したわたしの率直な感想。これは家系伝であり、SFであり、ナンセンスであり(類例のない)音學小説であり擬音小説でもあつて、別の筆者なら、少なくても五冊は書けるのではないかとも思ふ。山下がジャズ・ピアニストであることは幸運で、次作を考へず、何もかもを使ひ切ればよかつた(だから山下が二冊めの小説を書くことはないだらう)また本業の小説家にも、かれの新作が出ないのは幸運だつたらう。蒙る迷惑は一度切りで済んだのだから。不運なのは讀めない我われくらゐだが、そこは本業にどうにかしてもらはなくてはならない。何せ山下はエピローグで、門の向ふ側へ、タクシーで舞ひ上つたのだもの。