閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

092 一部始終(贅言)

 贅言といふのは余談とか余話とか、そんな程度の意味合ひで、『濹東綺譚』で初めて目にした気がする。併し荷風をまともに讀んだのは『断腸亭日乗』くらゐの筈だから、何か怪しい。別の本で触れてゐたのが、記憶に残つてゐるだけかも知れない。余談や余話の意味合ひだから、これをおまけだとか云ひ訳の意に受け取つても、荷風の意図は兎も角、大間違ひとは云ひにくい。この稿はさういふ話。

 前回の[091 一部始終]に目を通された方が何人ゐるか、定かではないけれど、きつと大半が、何て諄いんだらうと呆れたと思つてゐる。もう少し厳しい讀み方だと、諄いくせに中身が丸で無いと辛辣に考へたのではなからうか。仮にこの推察が正しいとすると、それはこちらの狙つたところである。目論見が成功したかは別に、いやその前に何が狙ひだつたかを云ふと、旧知と飲んだのが愉快だつたから、それだけを莫迦丁寧に書いてやれと思つた。

 この手を教へて呉れたのは内田百閒で、ことに『阿房列車』の影響が大きい。簡単に云へば、百閒先生がヒマラヤ山系氏をお供に、特別急行列車で大坂まで行き、一泊して帰るだけの話。意味ありげな美女は姿を見せず、東海道の謎も機関車の秘密もなく、ただその経緯が丹念に、見方によつては執拗に描かれてゐて、實はこの手帖でも偶に使ふ手法である。ただわたしの場合、外の話題に混ぜ込む、調味料風の用ゐ方で、手法自体を主に据ゑることは滅多にない。

 では何故その気になつたかといふ疑問が出てきて、さう書きたかつたのだと居直るのがこの際、一ばん正しさうにも思へるが、その“さう書きたかつた”ところをもう少し云ふと、画像で使つたのは鰹のお刺身、ミンチカツ(どうしてメンチカツ呼ばはりするのか知ら)に厚揚げ焼きの三点で、別々に使ふ方法もあつた。いづれも旨かつたのは前回に書いたとほりで、書かうと思へば確かにそれぞれ書けたらう。併しそれだと目論見には添はない。旨いと褒めあげることは出來ても、旧知と呑む愉快には届かなければ、失敗である。前回のが成功だつたのかは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の判定を待つとしても、最初から失敗だと判つてゐる方法を、わざわざ最初から取りあげなくてもよいでせう。

 ところで“一部始終”と題はしたが、實のところ、可也りの部分は省いてある。ことにどんな話だつたかをほぼすべて省略したのは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にもお気づきの筈で、題名に偽りありだよと呟いた方がをられても、不思議ではない。尤もこれは意図的である。理由の第一は、女性の口調を書けないこと。理由の第二は、中身が余りに空つぽだから、書き起しても仕方がないと判断したからで、前者はわたしの未熟だから兎も角、『阿房列車』に教はつたと云ひながら、後者の理由を云ひ立てるのはをかしい。『阿房列車』の会話も空虚が甚だしく、百閒先生が東海道線は何べんも乗つてゐるから、途中で居眠りをしても、窓の外を見れば、汽車が大体どの辺を走つてるか判ると自慢しても、ヒマラヤ山系氏は曖昧に、はあと返すだけで、中身があるとかないとかの話にすらなつてゐない。後に何も残らない。無内容である。併しその無内容は、讀んでにやにや出來る無内容でもある。詰り藝…文藝と呼ぶので、教はつて、直ぐにどうかう出來るのなら、それは藝と呼びかねる。意余リテ、力足ラズであつたなあと思ふが、思ひはしても事實は動かないし、動かない以上、こちらとしては歯軋りせざるを得ず、要するに贅言とは、かういふのを指す。荷風山人には叱られるだらうけれど。