閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

097 種

 天丼は丼界の王者である。

 さう断定して、異論反論批判が出る可能性は、ごく低いのではないかと思ふ。匹敵するのはかつ丼くらゐで、かう書くと、もしかすると我が親愛なる讀者諸嬢諸氏からは、鰻丼の立場はどうなるのだと疑義が呈されるかも知れない。そのご指摘にはある程度の正しさを認めもするのだが、あの原形は丼ではなく重箱に遡れるらしいと、小聲で反論しておきたい。蒲焼きを持ち帰る為、煎つて熱くしたおからを重箱に詰め、そこに蒲焼きを入れさせたのがそれで、鰻重そのものではないけれど、その原形…源流と見做しても、間違ひではないでせう。なので王者の冠は少々、似合はない気がされる。尤もこれも小聲でつけ加へれば、蒲焼きのたれが染み込んだおからは、旨かつたらうなと思ふ。いい肴となつたにちがひない。

 併しそれで天丼を王者と呼んでいいのだらうかと、引き續いて疑問を抱くひとも少からずをられるだらう。確かに天麩羅は元々下賎の食べものであつた。江戸の昔にまで戻ると、屋台での商ひしか許されなかつたさうで、これは火災を怖れた幕府の方針だつた。ものの本によると、当時の天麩羅は今でいふ串揚げに近く、但し火力の低さからか、衣が分厚く、ぼつてりした出來であつたといふ。設備の整つた室内で、強い火力の油を扱へるようになつてから…お座敷天麩羅と呼ばれてゐる…が發展の始りで、はつきりとしないが、どうやら十九世紀の中頃に原形が出來たらしい。何を種にしたかは判らない。貝類や海老、或は白身の魚辺りではなかつたか。とここまで書いて、そろそろ本題に入れさうだ。詰り天丼の種は何が好もしいかと、さういふ話。


 海老でなければ穴子

 大葉もしくは獅子唐。

 茄子。

 南瓜か薩摩芋。


 主軸はまづ、こんなところかと思ふ。断定を避けるのは、さうすると鱚はどうしたとか、貝柱を忘れてはならんとか、鶏天を欠かすわけにはゆかないとか、烏賊のない天丼はあり得ないとか、四方八方から論者が登場するにちがひないからで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏も、幾つかの種が頭の中を、ちらりとよぎつた筈である。但しかき揚げだけは例外としたい。あれを用ゐるのはあくまでもかき揚げ丼であつて、かき揚げ丼を天丼の一派に含めるのは賛同出來かねる。疑念を抱くひとには、カレー饂飩を饂飩の一派に含めますかと、訊ね返しておかう。

 ここで我われは、丼の大原則を思ひ出す必要がある。詰り丼はそれだけで完結する小宇宙だといふことで、天丼だつて勿論、さうあらねばならない。となると天種が、ある程度にしても、役割を分担…前菜、主菜、副菜…するのが望ましい。わたしが主軸に挙げた種で云ふと


・前菜:南瓜(または薩摩芋)

・主菜:海老(または穴子)

・副菜:茄子


大葉や獅子唐には箸休めまたは口直しの役を担つてもらふ。かうすれば、思ひつきで書いただけの天種に、何となく、説得力が出てきた気がする。鱚や烏賊や貝柱、或は鶏天を軽んじる積りはないし、またそれぞれに旨いのは大きに認めもするけれど、天丼といふ纏りを考へると、些か弱いのではないだらうか。玉葱やアスパラガスを使ふ方法はあるとして、それなら春菊や苦瓜も加へ、茄子を中心、野菜の天丼として仕立ててもらふ方が嬉しい。これはこれで、旨いだらう。

 さう考へて、変り種ながら實は可也り佳ささうに思へるのは、牡蠣の天麩羅である。…と書いたら我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、阿房かと呆れられるか知ら。牡蠣ならどうしたつて旨い。生は当然、蒸しても焼いても烹ても、そして揚げても旨いに決つてゐるぢやあないか。との指摘は正しい。正しいと認めつつ併し、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも、牡蠣フライに舌鼓を打つた方は多い筈だし、タルタルソースと共に、ごはんに乗せた経験もまた同じだと思はれるが、天丼となつたら、すりやあ食べたことがないなあと呟くひとの方が多さうに思へる。實はわたしも食べたことがない。ただし天種としては上々で、ひよつとすると牡蠣フライより旨い。だから旨い丼になるのは容易に想像出來て、かういふ場合は前菜だの何だの云はず、大葉辺りで脇をきちんと押へつつ、たつぷりの大根おろしを添へれば、海老や穴子を凌ぐ天丼になるのではないかと思ふ。広島辺りに、こつそりありさうだ。尤もこれだと、広島や尾道や呉のお酒が慾しくなつて、茗荷だの酢のものだのも慾しくなつて、瀬戸内のお刺身も慾しくなつて、完結した小宇宙となるのは六づかしい。結局は最大公約数の天種が安定するのだなと納得出來る。それらが最大公約数を得たのは、それだけの撰択と洗練を経たからで、我われはご先祖と天麩羅屋の親仁に感謝しなくてはならない。