閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

100 自分の話

 気がつけばこの[閑文字手帖]も百回目に到つた。ざつと十ヶ月。我ながらよくはふり出さずに續いたものだと思ふ。それでふと気がついたのは、このウェブログで、自分の話をしてゐなかつた。いや正確に云へばこれまでの九十九回はすべて、自分の話ではあるのだけれど、俗に云ふ自分語りはしたことがない。だから一ぺん、やつてやれと考へた。百回記念とか何とか理窟をつければ、きつと文句も出ないだらう。

 それで先づ、わたしの筆名は丸太花道といふ。讀みはマルタハナミチ。元々の筆名は丸髙堂で、その讀みを変へて、別の字を宛てた結果がかうなつた。では丸髙堂は何なのだと訊かれさうだが、そこは云はない。自分語りといつたつて、曝け出さにやあならんわけでもないでせう。そもそもは丸髙堂名義で駄文を書き散らしてゐた頃(念の為に云ふと、当時の文章はほぼ残つてゐないと思ふ)、おれがどうしたかうしたと書くのが厭で、丸太花道といふ別人に託したのが始りだつた。これには種があつて、内田百閒である。かの妙なご老体は自分の話をするのに、藤田百鬼園を名乗つたり、退役陸軍大将フォン・ジャリバーと称したりしてゐて(因みに云ふ。これは百閒先生が逼塞してゐた頃に“砂利場の大将”と揶揄はれてゐたことに由來する)、気取ればオマージュ、身も蓋もなく云へば眞似であつた。

 大体わたしは、かういふオマージュ…ではなかつた、眞似が無闇に多い。“何々だつた”ではなく、“何々であつた”と書くのは菊池光だし、お店や銘柄を[ ]で区切るのは池波正太郎。“何々といつていい”とするのは司馬遼太郎。“何々ぢやないか”でなく“何々ぢやあないか”は荒木飛呂彦。といふより、そもそも歴史的仮名遣ひで書くのが、丸谷才一を丸々盗んだ結果で、いづれも先達のやうに書けてゐるかは別の問題としてもらつて、わたしの手法は大半…訂正、大部分がその果實を貪つてゐるのは、間違ひのないところである。

 とここまで書いて、外に何を書けばいいのか、判らなくなつた。好みの酒肴やカメラ、本については既に触れてゐる。閑に任せて幾つか讀んでもらへれば、ものの見方考へ方も、何とはなしに見当がつくだらう。文章にはさういふ性質があるもので、わざわざ自己紹介の為に一文を草するとしたら、恋文くらゐしか思ひつかないが、短くはないこれまでの人生で恋文を書いたことはなく、残りの短い人生で書かないだらうこともほぼ疑ひはない。ひよつとするとわたしは、可也り歪つな少年だつたのかと今さら気がついたが、今さらだからどうにもなりはしない。それで恋愛の履歴を思ひ出してもいいのだが、さういふことは文字に起す必要はなからうとも思へる。幾度かのそれはあり、成功も失敗もあつて、それについて考へるところもあるのだが、それは自叙伝でも書く積りになつた時の為に残しておかう。

 万が一、その気になつたとして、『トリストラム・シャンディ』(といふ奇妙な小説は、未だちやんと讀んだことがないのだけれど)の眞似でもしなければ、三十頁くらゐで終りさうだ。ここで我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の為に附言すると、自叙伝のやうな文章を書くのなら、フランクリンやマルクス・アウレリウスより、荷風の『断腸亭日乗』を参考にする方がいい。あれは日記体裁の随筆だが、そのまま荷風個人の歴史(なので親族や友人に対する痛罵、愛人への愚痴も平然と書かれてゐる)でもある。ある程度は思ひ出しながら書いて、後は“日乗”式に續ければ、死ぬのと同時に完結する。我ながら、名案だなあ。そこで自叙伝でも自分語りでも、たれかに讀ませる性質ではなくて、手帖でも何でも、こつそり書きつけておくのが矢張り正統の手法だらうと気がついた。過チヲ糺スニと孔子さまも仰有つてゐることだし、この辺りで百回目は終りにしておくのが、望ましい態度といふものであらう。