閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

101 ぶたとん

 ごはんがある。

 お漬物がある。

 あと一品、汁ものが慾しいとなつた時、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は何を撰ぶだらうか。当り前に考へるとお味噌汁になりさうだが、ごはんとお漬物にお味噌汁だと、焼き鮭とか鯵の開きとか玉子焼きとか、さういつたのが慾しくなる。そしてそれは本道であるとは、わたしも認めるのに吝かではない。吝かではないとして、それだと話が進まなくなるので、ごはんがあつて、お漬物があつて、なほ一品、汁ものだけを加へるなら、と考へる。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にはご不満もあらうかと思ふが、ここはもう諦めて頂く外にない。

 粕汁

 判らなくはないが、これは寧ろ肴である。出來れば同じ藏のお酒と酒粕で揃へてもらひたい。大根と牛蒡、鮭、豚肉、葱がどつさり入つた粕汁ほど、冬の肴に好適なものはない。

 シチュー?

 クリーム・シチューやブラウン・ソースであれば勘弁してもらひたい。アイリッシュ・シチューなら何とかなるかも知れないが、お漬物との相性は惡さうだ。

 勿論かう書く以上、目論見があるので、勿体振る必要もないでせう。豚汁である。これをトンジルと讀むか、ブタジルと讀むかには議論の余地が残るだらうが、わたしはトンジル讀みに馴染んでゐる。以降の豚汁表記はトンジルと讀んでもらひたい。異論や反論は勿論、受付けませう。[閑文字手帖]は寛容を旨としてゐる。寛容を旨とするならトンジルでもブタジルでもかまはないぢやあないのと云はれさうだが、その辺はもごもごと曖昧にしておかう。それで曖昧は曖昧なままで、豚汁に話を移すと、意外なほどに粕汁と具が近しいと気がついた。

 豚肉。

 牛蒡。

 大根。

 人参。

 長葱。

 菎蒻。

 里芋。

 豆腐。

 油揚げ。

 外に椎茸でも茹で玉子でも何でも、目についたものをはふり込んで、おそらくは問題ない。それでかういふのは、兎に角大振りに切るのがこつかと思はれて、また大振りの丼にでもたつぷりよそふのが正しからう。この場合、お箸はちまちまし過ぎるので、木匙を使ひたい。掬つたらそこに粉山椒を振つて、頬張る。お味噌汁でも粕汁でもシチューでも、かういふ豪快を求めるには些か無理があるもので、近いところを考へると、沖縄の味噌汁だらうか。これは沖縄そばの出汁(のやうに記憶してゐる)に味噌を溶き入れ、ポーク・ランチョンミートだの、苦瓜だの、豆腐だのを焚き、たつぷりの野菜炒めを乗せて、丼で出してくる。食べる前にはこーれぐすを忍ばせるので、ごはんとお漬物に組合せるのは強引かも知れないが、宿醉ひの晝には恰好の食べものだつたなあ。機会を得られれば、宿醉ひではない時に、あれでオリオン・ビールを堪能したいものだ。

 かう云ふと、豚汁だつて、隣に焼酎があつても不自然ぢやあないよと指摘するひとが出てきさうに思へる。またその指摘はまつたく正しい。わたしは豚汁を汁ものの一種ととらへ、その積りで書いてきたのだが、それは誤りかも知れない。囲炉裏に鐵鍋をぶら下げて、くつくつと焚いて、甕から汲んだ焼酎を呑みながら大椀で食べ、どんどんお代りをする方が、様としてしつくりくる。こんな時はお刺身も天麩羅も焼き魚も要らない。途中でぶつ切りにした鶏でも、隣の畑から失敬した蕪でも、はふり込んで、呑みまた喰へば、いつの間にやら、暮れた筈の陽が縁の向ふから昇るのに気づくだらう。豚肉の旨い食べ方は数々あるけれど…たとへば東坡肉、或はとんかつや生姜焼き…、身も脂も存分に愉しむ場合、もしや鐵鍋で煮る豚汁こそ、最良の調理法ではあるまいか。と昂奮して仕舞つたが、また實際、一ぺんは試してみたくもあるのだが、それはそれとして、ごはんとお漬物といふ質素な夕食を、ぐつと豪奢にしたいなら、豚汁をば、大椀に溢れるくらゐ、盛るのに限る。残る問題はそのお椀を塗りものにするか、焼きものにするかだが、これはもう、貴女とわたしで、お気に入りを持ち寄るしかないと思はれる。