閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

105 調ひラーメン

 普段はラーメンを食べない。偶に即席のやつを口にするくらゐで、併しきらひといふわけではないが、ラーメンなら饂飩や蕎麦の方がいい。十数年前は、たとへば呑んだ後にラーメンを啜り込むのが半ば当り前だつたのを思ひ出すと、詰りおれもさういふ年齢になつたのだなあと、顎を振りたくなる。振りたくもなつてくる。仮にラーメンを食べるなら、ありふれた醤油ラーメンがいい。詳しくは知らないのだが、何とか系とか何々式とか、あるのでせう。ああいふのには興味が持てない。どこそこの蕎麦屋の玉子焼きは旨いとか、さういふのは知りたいと思はなくもなく、この辺りはもう、嗜好のちがひなのだと考へてもらふ必要があるだらう。改めて念を押すと、中國のどこかで生れ、我が國で別の料理になつたこの麺ものを、わたしは忌避してゐるのではない。わざわざ食べたいと思ひにくいだけで、適当に空腹な時に、気を惹く品書きを目にしたら、店にも入るし註文だつてする。尤もその前に、少なくとも数回はそこで、外のものを食べて、旨いなあと思つてゐなくてはならないけれど。

 品書きには“冷し正油ラーメン”とあつた。何年も前にどこかで食べた記憶がある。山形だつたかと思ふが、さういふラーメンがあるのを、東都でも喰はせる店があるといふので、連れて行つてもらつたのだ。見た目は当り前の、叉焼と支那竹と葱が乗せられた醤油ラーメンで、それがそのまま冷たかつた。その時に驚いたのは、ひいやりとした仕上げにも関はらず、脂(ソップは鶏がらで取つた筈である)が、固まつてゐなかつたことで、注意深く用意しないと、ああいふ出來にはならなかつたと思ふ。あれは確かに旨かつたが、どこにある何といふ店だつたのかは、記憶からさつぱり、抜け落ちてゐる。“冷しラーメン”の文字を見たのは多分その時以來の筈で、第一に懐かしさを感じた。第二にはその店の味は、心配しなくていいと知つてゐたこともある。第三には余りの暑さで何をする気にもなれず、たとへば素麺を茹がくのも面倒だつた事情がある。これだけ理由があつて、食べない撰択もないだらうと思つたから、食べることにした。

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  どんな見た目だつたかは、画像を見てもらへばいいでせう。支那竹がないのはちよいと寂しいかとも思つたが、焼き海苔を添へないのは宜しい。その分はもやしと青菜の炒めものと煮玉子で、元が取れてゐる。ソップを啜ると、予想してゐたよりは冷たくない。氷水を飲ませるわけではないといふことか。味つけは淡泊。普通の醤油ラーメンより、脂つけが少ないのか知ら。何となく蕎麦を連想させる。煮豚も矢張りあつさりした仕上げ。麺は真つ直ぐで、少し太いかと思へた。中々うまいが、どことなく落ち着かない。途中、ソップと麺をれんげに乗せ、ほんの少し、酢を垂らしてみたら、しつくりきた。暑さで胃袋が疲弊してゐるからだらうか。丼に掛けまはすのは、流石に控へつつ、食べ進めると、ほんのりと辛みを感じた。よく見るとソップには細かく挽いた黒胡椒が忍ばせてあつた。工夫だね、と感心して平らげたけれど、最後まで落ち着かない気分が残つた。何だらうなと考へて、ソップがよくて、煮玉子も煮豚もよくて、麺もよくて、だけれど全体の調整が取りきれてゐないのかと気がついた。残念と云へばその通りではあつても、冷しラーメンといふちよいと特殊な献立であれば、止む事を得ないとも云へる。それにここには、冷しではない正油ラーメンがあるのも確かめてある。こちらなら、全体が調つた味はひの期待が出來る。暑さがさうでもなくなつたら、一ぺん啜つてみなくてはなるまい。