閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

107 推測玉子

 玉子丼はうまい。

 甘辛く、やはらかく、あんなに丼めしに適ふ種もないんではなからうか。

 下品かなと思へる程度に濃いめのお出汁で、刻んだ油揚げ、蒲鉾、青葱に玉葱を焚いて、溶き卵でとぢる。それを素早く丼めしに盛つたら、仕上げに三ツ葉を散らす。要はこれだけで、出來れば大振りな木の匙があれば、週末の午后に似合ひの食事が完成する。

 だつたら鶏肉を入れて、親子丼にすれば、もつといいよねと聲が上がるだらう。それはまあ、その通りかも知れないが、この稿で取上げてゐるのは玉子丼なので、鶏肉に入つてこられると具合が惡い。第一、親子丼と云つても、卵が親なのか、鶏肉が親なのか、はつきりしないのは困る。今回ははつきり、卵を主役にしたいから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には申し訳ないと思ひつつ、親子丼には目を瞑る。併し両目を瞑るわけにはゆかない。何故かと云へば、玉子丼がいつ頃、登場したのかといふ疑問が浮ぶのは当然の筈だし、さうなると親子丼を無視出來ないんである。

 そこでざつと確かめると、どうやら東都は日本橋の[玉ひで]を源流としてほぼ、誤りではなささうに思ふ。その[玉ひで]の“親子丼誕生物語”によると

http://www.tamahide.co.jp/gansooyakodon.html

軍鶏鍋の〆に肉と割下を卵でとぢて(これを“親子煮”と称した)ごはんのお供にしたお客に發想を得て、盛り切りの丼で供するようになつたのが始りだといふ。これが明治二十四年辺り。岸田劉生の生年でもある。この岸田劉生の親爺が岸田吟香といふ實業家。以前にもこの名前に触れた記憶があるが、我が國で卵かけごはんを愛好したごく初期の人物である。食べだしたのは明治十年頃だといふから、西南戰争の頃ですね。生卵の衛生はどうだつたのか知ら。因みに吟香の歿年は明治三十八年。[玉ひで]から親子丼の出前を取つた可能性はあるだらう。尤もかれが卵かけごはんに熱中し、周囲にも勧めたのは、旨いまづいより、滋養強壮の効能ゆゑの気配があるから、日本橋の新名物には興味を示さなかつたとも考へられる。

 吟香でも親子丼でもなかつた。話を戻す…前に、今一度、“親子丼誕生物語”に目を通すと

『盛り切りの丼は汁かけめしとして軽んじ』

られてゐて、[玉ひで]でも最初は“出前限定”だつたと書いてある。立派な食べものとは認識されてゐなかつたわけで、何故この点に触れたかと云ふと、もしかして玉子丼は、卵かけごはんの変型または応用ではなかつたかと思つてゐたのだが、どうもそれは間違つた推測らしい。寧ろ親子丼の人気に便乗したたれかが、手間を惜しんで鶏肉を省き、玉子丼に辿り着いたのではないかと、推測を改めたい。さうなると玉子丼の登場から完成に到る時期は、明治の終り頃から大正の初期にかけてくらゐかと想像出來る。玉子丼史が編纂されてゐるわけではないから、あくまでも推測…想像に過ぎないけれど。併し手間を惜しんだとは云へ、油揚げを刻み入れたのは素晴らしい發案である。(蒲鉾にしても)鶏肉の代用だつた筈だが、出汁を吸ひ、風味を添へる点で、油揚げを撰んだのは、望ましい手の抜き方だと云つていい。

 かう賞讚してから不思議に思ふのは、厚揚げを撰ばなかつた理由だが、ここで根拠のない推測をすると、玉子丼(の原型)は関西…近畿圏に源流があるのではないか。大坂周辺には刻み饂飩といふのがある。刻んだ油揚げを種ものにして、一枚ものを用ゐたきつね饂飩とは区別される。刻んであると、饂飩と一緒に啜れるのが中々に旨い。詰りさういふ使ひ方は知られてゐたわけで、中には卵かけごはんにも乗せたひとがゐたかも知れない。

 「東京で、“親子丼”なんちふのが、流行ツとるらしいなア」

 「鶏肉を使ふンか。めンどでかなんわ」

 「せやけど、卵だけゆうのも、あいそなしで、あかンやろ」

 「ほなら、あぶらげでも、使こたらエエねん」

 「いけるンか」

 「いけるやろ。刻みもあるし、わし、卵かけでも使こてるから」

といふ会話があつたかどうか、保證の限りではないとして、玉子丼が眞面目な研究と苦心惨憺と試行錯誤の結果、やうやく誕生したとはどうしても思ひにくい。手を抜いて手間を省いて作つてみたら、旨かつた。さういふ結果論的なかるさ、いい加減さが、玉子丼の味の背景にありさうな気がされる。勿論わたしの推測だから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は、これをあてにしてはいけない。