閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

111 めくもの

 時々思ひたつて立ち呑み屋といふ場所に行く。大久保のPとか、中野のP(頭文字は同じだが無関係)やA(ここは葡萄酒専門とヰスキィ専門の二店がある。別名で麦酒のお店もあり)、或はK(焼酎の前割り…二、三日前から甕で水割りにしておいたやつで、所謂水割りより口当たりが滑らかである…を呑める)辺り。新宿にも気になるお店はあるのだが、そこはまだ行つたことがない。足を運んだお店はいづれも中々うまいと書くと、我が若い讀者諸嬢諸氏は首を傾げるだらうか。

「立ち呑み屋つて、鼻の頭の赤い小父さんが、廉な芋焼酎のお湯割りを舐めながら、煎りつけた蒟蒻をつまんでゐるやうな場所でせう」

なんて、古めかしい印象だらうか。…まさか、ね。わざとらしい“昭和ノスタルジー”映画ぢやああるまいし。さういふ小父さんが呑み屋街にゐないとは云はないけれど、上に挙げた立ち呑み屋では見掛けたことがない。単にわたしが幸運だつただけの可能性は一応、否定しないでおく。それに芋焼酎のお湯割りに煎り蒟蒻だつて、惡い組合せではないでせう。

 ところでわたしが属するニューナンブでは、立ち呑み屋を訪れたことはない。主な理由として、ニューナンブはじつくり二時間、お酒と莫迦話を樂しむのが流儀だから、詰り立ちながら呑むには不向きである。それに立ち呑み屋に行くなら獨りか精々ふたりが限度でもある。ああいふお店は大体、十人か詰めて十五人くらゐしか入れない。そこに三人四人で押し掛け、だらだら呑むのはお店とお客に迷惑な態度だし、また野暮な態度でもある。余程馴染めば、多少の我が儘も許してもらへるかも知れないが、立ち呑みは三杯、長くても一時間以内にお勘定をしてもらふのがいい。恰好をつけた話でなく、それくらゐで丁度いいのが立ち呑み屋といふ場所なのだといふことは、知つておいて、損にはならないと思ふ。但しさうなると、何を呑み、また何をつまむかが問題になつて、お腹の減り具合、この後どこに足を運ぶか(当然そこでも呑み且つ食べる)を考慮しなくてはならず、たとへばフィッシュ・アンド・チップスがあるとして、それが如何に旨さうでも、次にIPAを呑まうと思つてゐるなら、控へておく方がいい。詰りそれだけ旨さうな…旨いつまみものが、幾つか、或は幾つもあるのが立ち呑み屋なんである。

 「すりやあ何だか」と妙な顔つきになるひとが出てきさうで「落ち着かなくていけないなあ」

といふ気持ちは判る。併しぜんたい何べんか失敗すれば(それくらゐの手間は惜しんではならない)、どこの立ち呑み屋は何が得意かといふのは、漠然と掴めてくる筈で、たとへば上のお店で云へば、葡萄酒のAでシェリーとピックルスかハムをつまんでから、Pに移つて獨特の酎ハイか濁り酒を呑みながら、餃子だつたり、ちよつとした炒めものを頼む。これくらゐでお腹は落着き、いい具合の醉ひ加減にもなるだらうから、ここからは坐れるお店にすればよく、臺灣居酒屋でも沖縄居酒屋でも、思ひ切つて気にはなつてゐたが、入りにくいと思つてゐたお店でも好きに撰べば、夜は満足に到る筈だ。それで、と續ければ、前回の[110 波頭]の續篇になりさうで、實は少し、それを考へもしたのだが、同じ伝を二回續けるのは、幾らわたしが図々しくても気が引ける。それに最近はさういふ呑み歩きをしてゐないから、書きにくい事情も實はあつて、この稿は前回の贅言めくものなのだなと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、考へて頂きたい。