閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

112 用件

 何用あつて月世界へ。

 月は眺めるものである。

 と嘯いたのは山本夏彦だつたと思ふ。斬れ味のすすどさは類を見ないけれど、そのすすどさはアナクロニスムを突き詰めた結果だから、そこに目を瞑ると惡醉ひして仕舞ふ。それで溺死まで進めれば李白のやうだと呼ばれるかも知れないが、疑ひなく、褒められる様とは呼べますまい。

 併し月は眺め、また見上げ、或は舷から手を伸ばすだけではない…即ち“月見”がそれ。

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 蕎麦でも饂飩でも“月見”はあるけれど、蕎麦の方が旨いと思ふ。東京風の濃いつゆに、黒々とした蕎麦、そこに卵が浮ぶと、如何にも月夜といふ感じがされて、いい眺めである。饂飩だとその辺りが曖昧になるし、ことに大坂風の淡泊なつゆだと却つて、卵が味を薄めるから感心出來ない。

 本当はここにひと刷毛、とろろ昆布が慾しい。それで丼に“月に叢雲”が出來上る。本來の月見蕎麦が果してさういふものなのかどうか、それはわたしの知るところではないが、その方が“月見”の名前に似つかはしいのではなからうか。そしてさういふ月世界は、我われにとつて大きに用件があることになつて、溺死の心配なく、その月は箸で摘まめもするし、眺めるだけでは収まらなくなる。