閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

114 閑文字流

 讀書感想文といふ夏休みの宿題は今でもあるのだらうか。課題図書を讀んで、感想を書きなさいといふやつ。本に親しみ、讀書の習慣を身につけるとか、そんな名目だつた記憶があるが、その名目に讀書感想文ほど不似合ひな課題もない。小學生中學生程度の作文術では、まだまだ未熟なのが理由の第一。感想文は批評の一種なのだから、小中學生には余りに高度な思考が要求されるのが理由の第二。嘘だと思ふなら、書評と称する文章を二つ三つ、讀んでみればいい。相当の讀み巧者が書いたものでない限り…詰り圧倒的且つ絶望的に少数…、詰らないと気づくだらう。具体的にどこのたれと喧嘩を賣るのはあれなので、惡い例として、この手帖の“本の話”を挙げておかう。大人が書いてそれなのに、子供にそれを求めるのは、最早いぢめの域ではなからうか。大体、讀むのを強制された本なんて、残さず食べませうと強要された給食のピーマンくらゐ厭なものである。

 ところで仮に今も、讀書感想文といふ虐め…ではなかつた、宿題だね、宿題があるのなら、手をつけないわけにはゆかないでせう。ではそれをどう書けばいいか。ここから[閑文字手帖]流に解説をするのだが、先づ、讀むのは讀んでもらはないと困る。詰らないかも知れないし、面白く讀めるかも知れない。それはきみと本の相性なのだし、面白く讀むべき理由はない。そもそも強制されて讀んだ本が面白かつたとしたら、それは幸運なのだから、気にしなくて宜しい。それで讀みながらでもいい、讀んでからでもいいから、その本がどうして、詰らない(面白い)のだらうと考へませう。

 ・主人公の言動が恰好よく思へた。

 ・登場人物の科白まはしが納得出來なかつた。

 ・お説教されてゐる気分だつた。

 ・愛らしい女の子が出てきて嬉しかつた。

 ・何が書かれてゐて、何を云ひたいのか、さつぱり判らなかつた。

全部を取上げなくたつて、かまはない。寧ろ幾つか出ただらうその中で、ひとつだけ…きみにとつて最も印象の強いことを取出して、たとへば主人公が恰好いいなあと思つたのなら、何故恰好よく思つたのかを書かう。痺れる科白があつたとか、危機一髪の時の決意とかね、さういふことを書けばいい。仮にそんなの丸でなくたつて、嘆く必要はない。丸でなかつたのだつて、讀んだ時に感じたことである。感動もせず、反感も持てなかつたのなら、それを率直に、その理由を出來るだけ書けばいいんです。

 それをね、どう書けばいいのかが、判らないんだよと頭を抱へるきみ、安心し玉へ。わたしは親切だから、その点もちやんと教へてあげます。非常に簡単で、たつたひとりを思ひ浮べませう。両親でも兄妹でも、親友でも、たれにも内緒にしてゐる好きなあの子にでもいい。そのたつたひとりを頭に浮べながら、この本は面白かつたよと、或は詰らなくて残念だつたなあと、伝へる積りで書かう…笑つちやあ、いけません。不特定多数の讀者を想定するのに、きみたちは未熟だし、担任の先生が大好きなら話はちがふが、でなければ、わざとらしい恰好つけになつて仕舞ふ。きみにとつて特別なひとりに、耳打ちするやうな気分(さう、ラヴレターみたいな)で書けば、自然と言葉は丁寧に撰ばれるのだから。

 さて。ここからはおまけ。詰り小中學生向けではない讀書感想文…別名を書評…に少し、話を広げませう。この場合、大切になるのは比較である。もうひとつの條件に俯瞰もあるのだが、そちらは今回、触れずに比較だけを取上げる。たとへば『私の食物誌』といふ本がある。吉田健一の名著。これについて書かうとする時、吉田が書いた外の食べものに纏はる文章は当然として、別の著者による食べもの話や、この本が發行された当時(昭和五十年前後)の食べものに関する話題や本も知つておきたい。さういふ事柄にすべて触れる必要はない。たださういふ流れや周辺と比較することで、一冊の本が著者の中、時代の中、ある範疇の中で、どんな位置を占めるのかが、立体的に浮んでくる(但しそれを緻密に行ふには俯瞰の作業が不可欠になるのだが)その位置づけを示し、また美点と欠点を示すのが、我われが求める“本についての文章”で、さういふ書かうとした場合、関連するところも含めれば五冊十冊(もしくはそれ以上)に目を通すのが基本になる。かう云へば、自称書評が詰らない理由がはつきりする。その一冊か精々前作しか讀んでゐなくて、底の浅い文章にならない方が寧ろ不思議ではなからうか。…書いてゐて、おれはどうなんだと自問が浮んできたから、最後に[閑文字手帖]で書いてゐるのは、あくまでも“本の話”であつて、書評ではないのだと云ひ訳をして終りにする。