閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

118 おろす

 さてここで問題をひとつ。

 天麩羅。

 鶏の唐揚げ。

 蕎麦。

 焼き魚。

 厚焼き玉子。

 水炊き。

 ハンバーグ。

 以上に共通するところを挙げよ。


 …。


 考へましたか。


 …。


 よ御坐んすか。


 よ御坐んすね。


 正解は“いづれ大根おろしが似合ふ”である。

 疑念や異論、反論は認め難い。

 外にもとんかつや縮緬雑魚、お味噌汁の種にもよく適ふし、葱と茗荷をたつぷりあしらつた冷や奴にもいいし、霙煮といふ食べ方もあつて、いやそれ以前に醤油のひと垂らしがあれば、大根おろしだけでも十分に旨い。

 とここまで書けば、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には賢察頂けると思ふが、わたしは大根おろしが大好物なのです。

 大根自体も好物である。

 豚肉や鶏肉と焚合せてよく、千六本に刻んだのを大葉でくるむのもよく、お漬物でまた宜しく、おでんの種は勿論、大根抜きのもつの煮込みは考へられないし、ふろ吹き大根に鰤大根ときたら、飛びつきたくなるくらゐでもあつて、その中で一ばん好きなのは何かと訊かれれば、大根おろしと応じるのに躊躇ひは感じない。

 何故か知ら。

 實際のところ、大根そのものが旨いのかと云ふと、かるく首を傾げたくなつてきて、出汁や調味料、その他の具のいいところを、ぐつと受け止める懐が大根の本領ではないかと思はれる。話が広がり過ぎるといけないので、以降のこの稿では大根おろしに話を絞るとするが、矢張りそれ自体が積極的に旨いとは云ひにくい。

 だつたら大根おろしはあつてもなくても、かまはないんぢやあないか

 といふ見方が出るのは容易な想像なのは認めるが、では大根おろしのない天麩羅や焼き魚が考へられるかと云ふとそれは困る、断然こまる。熱さを抑へ、濃い味をやはらげる、さういつた目的があるのも事實の一面ではあるが、矢張り大根おろしがある方が旨いので、詰り大根おろしは無理無臭でないことになる。当り前の話で、おろしたての大根おろしを口に含めば、甘さも辛みも、ごく微かな苦みも感じられ、どれがさうなのでなく、その纏りが大根おろしの仄かな味となつて、我われ、でなければわたしの舌を悦ばせる。

 さうなると“大根おろしを一ばん美味く食べる”方法は何だらうと疑問が浮んできて、矢張り天麩羅になるか知ら。天つゆに大根おろしをたつぷり入れてやつつける海老、鱚、穴子、烏賊(蛸はどうだらう)、かしは、大葉、牛蒡に筍、諸々の山菜やかき揚げ。いいですねえ。ちよいといいお酒を、奢りたくなつてくる。

 と熱く喋つてから云ふのも何だが、天麩羅が本当に最良なのかと云ふと、些かの疑念が残つて、水炊きを忘れてはならないと思はれる。豆腐、春菊、菠薐草、椎茸に榎茸、豚肉に鶏肉、春雨、鮭、鰤、餃子。頭の中でハテナ印を浮べるひとがゐさうだから、念の為に云ふと、生煮えくらゐの鰤に大根おろし(ささやかな経験で云へば、赤身のお刺身に大根おろしは似合ふ。牛肉のたたきだつたら、どうか知ら)の旨さときたら、たまらんものだし、うがいた餃子に大根おろしも適ふ。

 いやいや、それは認めてもいいとして、水炊きは季節が、限られてゐるでせう。大根おろしを愉しむのが季節限定なのは、どうだらうねえ。

 流石である。我が賢明なる讀者諸嬢諸氏の指摘はすすどい。では暑い季節に水炊き方式で、大根おろしを愉快しめないかと云へば、近い方法がある…正確にはないわけでない。なに、豆腐を温めるだけのことで、但し湯豆腐ではない。だから出汁を引かなくてもいい。中まで火が通らない程度に温かくしたのを、少し深めのお皿に用意して、茗荷に胡瓜、穎割れ大根、葱、天かすと、たつぷりの大根おろしを乗せ、蕎麦つゆを垂らしかければ出來上り。堅いのか柔らかなのか、熱いのだか冷たいのだか、あつさりしてゐるのだか油つこいのだか、よく判らないのが全部、大根おろしの味になつて、かういふ場合は匙で食べるのが旨い。

 旨いかも知れないが、それだと食事と呼ぶには物足りない。ここは矢つ張り、鶏の唐揚げもハンバーグも用意して、大根おろし尽しにしなくちやあいけないよ。

 と嘆くひとは健全な胃袋の持ち主である。羨ましい。わたしくらゐになると、その辺りは品書きに書かれてゐれば十分で、これは老人の證と云ふべきか。併し大根おろしには消化を助ける働きがあるといふ…『吾輩は猫である』にもさう書いてある。漱石先生が嘘を書く筈はない…から、最初に食べれば、食慾も湧いてくる可能性はある。そこに牡蠣の天麩羅(サヴァラン教授に曰く、牡蠣には消化剤の効能があるのださうな)があれば完璧で、勿論牡蠣の天麩羅にも大根おろしはよく似合ふ。