閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

122 ビアもつ

 暑い時期は食慾がすつかり落ちる。さうでもないよと云ふひともゐるだらうね、凄いなあ。まあそれでも、食が細くなるのは、かまはない。例年の如くである。ただ自分でもまづいと思ふのは、それでも何かしらは食べなくてはならず、その用意をするのが面倒になることで、かうなると空腹なのに食慾を感じないといふ妙な状態に陥る。辣韮をつまんで、罐麦酒を呑めば一応は解決しなくもなく、但しそれが眞つ当かと云へば、断じてさうとは呼べず、寧ろひととして如何なものかと云はれても、反論は六づかしい。そんなら外食で何とかなるぢやあないかと叱られさうな予感がされて、そこでいちいち外に出るのも億劫なのだと応じたら、もつと叱られる。かういふのを八方塞がりと呼ぶのだな、きつと。文句をつける相手もゐないのは困りものだが、元々がわたしの無精が原因なのだから、やむ事を得ないか。

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 それで平日、偶さかの早い夕方、翌日に余裕があつて、それもまたよいかと思へる気分といふ條件が重なつたら、寄り道をして一ぱい呑む。ひとりで呑むのだから、気は樂なもので、ぶらつと入つて直ぐ、麦酒を註文する。かういふ場合はどうもジョッキより壜麦酒の方がよささうに思ふ。勿論それは統計學的にどうかうの話でなく、こちらの経験値が導いた結論で、通人の忠告より信用を置いていい。

 麦酒の冷たいところが塊になつて胃袋に落ちるのを確かめてから、もつ煮をあはせる。本当なら木匙で掬ひたい。煮込みの系統は概して匙の方が旨いからだが、そこまで我が儘は押しますまい。その程度の遠慮は心得てゐて、おれは謙虚だなあと自讚しながらもつ煮を食べるとうまい。麦酒を呑む。矢張りうまくて、目の前にあるのは完全食かと思へてくる。云ふまでもなく、勘違ひだが、理窟を捏ねられなくもない。

 いや併し理窟を捏ねるのは頭の役割で、それは確かに首の上に乗りはしてゐるけれど、かういふ場合にそれがちやんと働くものかどうか。働く筈だし働かせるのがひとり前の大人だと云ふひとがゐるだらうか。だとしたら働かせるのはそのひとに任せるので(頼みますよ)、麦酒ともつ煮に集中するのが、(少なくとも)(呑み助として)望まれる態度であらう。ただ望ましい呑み助の態度を取れたとして、後が續かない。何しろ食慾が丸で無いのだから、中壜一本ともつ煮で八割方は満腹の気分になつて仕舞ふ。ここからすつかり立て直してこそ、本式の呑み助なのだが、無理なものは無理である。ここはひとつ、ビアもつでひと通り満足するといたしませう。