閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

124 決めかねる

 父方の祖母はわたしが生れた時から一緒で、亡くなるまでの間の四半世紀余り、いつもわたしを甘やかした。特別な贅沢をさせたのでなく、いつだつてわたしの味方だつたので、ただの一ぺんも叱られたことがない。父親の話を聞いても、しかられた記憶は一度(それも原因は小さな誤解)だといふから、たいへんなひとだつたのだと思ふ。愛情と云ふと、何か大袈裟で、勿体振つて、特別な印象に繋がりかねないけれど、さういふ大袈裟も勿体振りもないまま、幼いわたしは祖母の愛情を全身で受けたと断じるのに躊躇ひはない。

 たとへば俵型の小さなおにぎり。たいていは海苔巻きか、胡麻塩で、あんなに美味しいおにぎりは長く食べてゐない。

 或はおびいこ。縮緬山椒の一種だが、祖母は山椒をあく抜きせず、縮緬雑魚と一緒に醤油だけで焚きしめた。焚きたてのは口にひびく辛さで、あれに馴染んだわたしは、市販のそれを、甘つたるくて食べられない。困つたと云へば困つた話。

 中でも忘れ難いのはある眞夏の日に用意して呉れたお味噌汁で、そこには實がなにひとつなかつた。そのお鍋が冷蔵庫に入つてゐて、詰り冷たいお味噌汁。旨かつたのかどうか、残念ながら覚えてゐない。今のやうにお酒を飲まなかつたから、そこまで喜ばしくなかつたのだらうか。出來るなら、あのおにぎりとおびいこに、このお味噌汁を添へたのを、夏のお晝に食べたいものだ。

 どうもわたしはお味噌汁が好物らしい。云ふまでもないが、わたしの舌なんて大した出來ではないから、何で出汁を引き、何処の味噌で、實はこれでなくちやあなんて、ややこしいことは判らない。近年は即席の味噌汁がそこそこ旨いし、便利でもある(わたしは味噌煮擬きにも使ふ)から、自分で用意することもないが、別に六づかしい手順が要るわけではない。朝、鋏を入れた昆布か煮干しを鍋にはふり込んでおけば、夕方には出汁が取れる、後はそれを温めながら味噌を溶き、葱でも豆腐でも入れれば、一応は完成する。それでまづくもない。勿論これはわたしの技術ではなく、味噌それ自体が旨いから成り立つた結果なので、先人の偉大さに敬意を表さねばならぬ。

 さう云へば何年か前、上諏訪の味噌藏か、味噌藏を改装しためし屋で食べたお味噌汁は滅法うまかつた。その場の雰囲気といふか、味噌屋だものといふ思ひ込みがあつたかも知れないが、旨かつたのだから、そこは気にしない。確實なのは味噌も味噌汁も、水が佳くなければ話にならず、雰囲気や思ひ込みだけで、滅法旨いとは云へず、上諏訪人はたいへんに恵まれてゐるのに、疑念の余地は少なからう。但しだから祖母のお味噌汁が駄目だと断じて云へないのは当然で、たとへばこの藏の味噌で、祖母のお味噌汁を食べたいなとは思ふ。上諏訪で食べたそれより、断然旨いに決つてゐて、それ(こそ)がお味噌汁なんである。

 では祖母にお味噌汁を作つてもらふとして、實は何が嬉しいか。わたしは躊躇なく、卵と玉葱を撰ぶ。正確に云へば、溶き卵と玉葱の薄切り。これが旨い。思ひ切つて云へば、世界一うまい。卵の溶き方はざつくり…黄身と白身の区別が出來る程度。玉葱は歯触りが残るくらゐでいい。その玉葱の分、お味噌汁には微かな甘みが加はるのだが、それもまた旨い。一ばんうまいのは固まりきらない白身の部分で、これをくつたりした玉葱と一緒に、ごはんに乗せるのがいい。勿論最後はごはんに打掛ける。外に鰈の煮つけでもあれば、わたしにとつては大御馳走で、この組合せの場合、酒精は邪魔になる。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には不思議がられるかも知れないが、少年だつたわたしに馴染んだ献立てである以上、飲まないのが寧ろ当り前と云つていい。

 お味噌汁には外の實だつて似合ふのは知つてゐる。豆腐に若布、油揚げ、長葱。眉をひそめられるかも知れないが、レタスも食べる直前にさつと火を通す程度にすれば中々いけるし、素麺を入れるのも旨い。もつと幅を取れば豚汁やある種のお雑煮も味噌汁の一派と見立てることも…いや、わたしはそちらに与しない。豚汁やある種のお雑煮は味噌炊きに近く、それが旨いのは云ふまでもないとしても、おつゆを食べるお味噌汁とは、趣が異なる。豚汁に玉子と玉葱を入れるとして、断然茹で玉子と大きな櫛切りの玉葱となるだらう。

 その豪快または奔放が豚汁の魅力なのは確かとして、伊豫人に嫁いだ明治の大坂娘が、その豪放を理解出來なかつたとしても不思議ではない。祖母はあくまでも大坂…広く考へても、瀬戸内の文化圏に属してゐて、骨付きの豚肉やぶつ切りの鶏肉とは無縁のひとだつた。仮に豚汁式の味噌仕立てを知つたとして、そんなのも、あるのやね、と呟くくらゐだつたらう。でなければ溶き卵と玉葱のお味噌汁をのやうにおつとりしたお椀や、實のないお味噌汁を冷蔵庫で冷さうなんてきつと考へない。甘やかされた孫の勝手な思ひ入れだねえと微苦笑を浮べるなら、浮べれば宜しい。今はどちらも食べられないのは残念だが、何年か先には存分に味はへる樂しみはある。ひとつそこで気になるのは、早々その時が來たとすれば、祖母には初めて叱られるかも知れないことで、ではどうすればいいのか、決めかねてゐる。