閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

132 あくがれはさて措いて

 立秋を過ぎた辺りの時期から、漠然と來年の手帖をどうするか、考へ出す。今年はパイロットの見開き二週間のやつを仕事の管理用に、私用にはアシュフォードで見開き一週間のリフィルを同社の聖書判システム手帖に使ひ、更にメモ用としてコクヨのA六判リング手帖を用意するといふ失策を犯した。何故失策と断定出來るかと云ふと、使ひにくいからで、では何故使ひにくいかと云へば、分割のし過ぎが原因で、仕事用と私用を別にしたのが間違ひだつた。更に云ふとシステム手帖を用ゐた為に、その持ち歩きを殆どしなくなつたのも誤りであつた。メモ帖に書きつけた後、アシュフォードに転記するのは面倒でいけない。但し転記は気障に云ふなら、『断腸亭日乗』式である。荷風は細々メモを取つてから、自分に都合よくなるよう浄書したさうで、如何にも荷風らしい。官憲の目を潜る目的もあつたらうが、自分の書いた日記が、ただの日記で扱はれないことを予め熟知しなければ、こんな眞似は出來ない。尤もそこには弟への罵詈雑言だつたり、愛人への金策だつたりも記されてゐるから、あの狷介な老人は一体なにを考へてゐたのか。そこは判らなくてもかまはないとして、わたしがその眞似をする必要、あるのか知ら。文豪でなければ愛人もゐないのに。いやそもそも、わたしの予定や記録に讀まれるだけの値うちはない筈で、それなら持ち出す手帖は少なく、軽いに越したことはない。

 といふことを今さら理解したのではなく(流石にそこまで鈍感ではないよ)、使ひ始めから薄々は感じてゐた。併し手帖の使ひ方を変へた当初は、どうも手指が落ち着かないのはこれまでにも経験があつて、馴染んだと思へるまでに二ヶ月前後は掛かるのも経験的に知つてゐて、今回も馴染むかと思つてゐたら、さうならないまま、立秋を過ぎて仕舞つた。随分と以前にモレスキンを使つて、その時も何だか妙だなあと感じながら、その一年を過ごしたのだが、違和感といふ点ではひよつとするとそれ以來かも知れない。かう書くとモレスキンの熱心なファンから叱られさうな気もするが、わたしにとつてモレスキンは使ひにくい手帖であつた。ヘミングウェイが『移動祝祭日』の冒頭、パリのカフェで生牡蠣と白葡萄酒をしたためながら、小説の構想を練るのに使つたのがモレスキンで、大方それに痺れて買つたのだらう。ヘミングウェイの愛讀者や、文學にあくがれる讀者諸嬢諸氏には、参考にしてもらひたい。さうさう、その場合の筆記具はよく削つた鉛筆なので、念の為。話の逸れ序でに云へば、荷風大谷崎が日記の類に用ゐたのは綴りあはせた和紙に筆だつたさうだから、文豪を気取るなら、試していいかも知れませんよ。但し間違ひなく筆墨硯紙で大変になるだらうから、お奨めはしかねるけれども。

 そこでわたし…即ちヘミングウェイでも大谷崎でもない男は、面倒を避け、当り前の手帖でどうするかを考へることにしたい。では当り前の手帖とは何だといふ話になつて、そこはごく単純に、近所の文房具屋で買へる手帖だとしておく。文房具屋が見当らなければ、文房具を扱ふ本屋でもかまはない。さういふ場所で手に入る手帖は所謂定番品で、定番品であれば作り方は相応に練られ、また安定してゐる。さうでなければ定番品とは呼ばれないだらう。勿論それを満点だと云ふ積りはない。大きさや形や紙質などの最大公約数が定番品の條件だから、概ね七十点から八十点の間に纏まるわけで、不足分はこちらで何とか(またはどうにか)するものである。その何とかなりさうな手帖の目星はつけてあつて、高橋書店(昨年以前に継續して使つた経験がある)を狙はうかと思つてゐる。ラパーの出來が感心しかねるのは毎年だから諦めるとして、中身はまあ惡くない。月曜日始りの月間ブロックと見開き一週間(全日が同じ大きさ)、多少のメモ書きといふ、わたしが求める基本は押へてあつて、書き心地も不満はなく、裏寫りしにくいのもいい。レイアウトの取り方に不満はあるが、まあ七十点は上げても宜しいか。これで横罫でなく、方眼罫ならもうちつと高い点数をつけたつていい。細かい不満をあげつらふのも出來なくもないが、大体のところは使ひ方でカヴァ出來る。ここは寛容を旨とする立場から、そこまでは口にせずにおかう。

 サイズはA五判がよからう。仕事の予定はどうだつていいが、遊びの計画や色々の記録に使へる。持ち歩きにもぎりぎり、不便を感じないくらゐではなからうか。かう云ふと、寧ろ持ち出すのはメモ帖だけにして、家でいはゆる日記帖を使ふ方法が考へられないか、糸井重里ほぼ日手帳はどうでせう、と好意に満ちた提案が出されるかも知れない。成る程確かに説得力がある。ただ残念ながら、ほぼ日手帳は一度検討して、これはいけないと思つたことを白状しなくてはならない。何がどういけなかつたのかと訊かれても、使ひ易さうには思へたのだが、どうしても手に持ちたいとまでは感じなかつたとしか云へない。それならコクヨの帖面の方が(嘗て日記帖で使つた馴れもあつて)いいかと思へてきて、更にそれなら気に入りになるかも知れない帖面を探してみたくもなりかねず、これは實にあぶない。切りがないし、切りがないままに任せると、最後に辿り着くのは筆墨硯紙への不必要な膠泥だらうとは、安易な想像である。繰返すとあぶないし、たちが惡い。文豪へのあくがれはさて措いて(大谷崎は筆墨硯紙に関する短い随筆で、萬年筆のやうな筆…現代の筆ペンについて想像を巡らせてゐた。ここは安直に眞似出來さうな気もする)、矢張り來年用の手帖は、近所の文房具屋で購入出來る一冊を撰ぶのが安全と結論に達したのだが、我が手帖好みの讀者諸嬢諸氏は、その辺りをどう考へてをられるか知ら。