閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

133 無駄または不要乃至贅沢

 何年か前、思ひ立つて宇都宮に行つたことがある。餃子を食べたい。餃子と云へば宇都宮。調べてみたら案外と近い。ビジネスホテルにも空きがあつた。なら行かう。といふ流れで、我ながら安直にもほどがある。ホテルは東武宇都宮驛の近くに取つて、旧國鐵宇都宮驛から歩いた。その途中で三軒か四軒、餃子屋に入つて、焼餃子と水餃子を食べた。地図の讀み方が下手だつた所為で、両宇都宮驛間が思つたより遠かつたのには、些か参つたけれど、さういふのも含めて樂しまなければ損である。罐麦酒とおつまみを買つて、早い時間にチェックインをした。麦酒を呑んで一時間かそこら、うつらうつらしたら夕方になつたので、ホテルを出てオリオン通りの方へ歩いた。その近くに屋台村だかがあるのは事前に判つてゐたので、そこで呑まうといふ算段である。小料理屋をうんと小さくしたやうな呑み屋に入り込んで、[鳳凰美田]で旨い玉子焼きを食べてから、きつと臺灣料理の呑み屋に移つて、臺灣麦酒に百合根のカレー炒め(これもいい塩梅)を食べ、ホテルに戻つて眠りこけた。翌日にもう一ぺん、焼餃子を食べてから帰つた。だからホテルでは眠る以外のことをしてをらず、思ひ出しても發作的で怠惰な一泊であつた。次に機会を作る時は、もうちつと計劃を練らなくてはなるまい。

 計劃はまあそれとして、發作的でもさうでなくてもビジネスホテルは便利である。数千円でシャワーと清潔なベッドを使へて、場所によつては料金に朝ごはんも含まれてゐる。建物それ自体に樂しみや期待を持たなければ、まことに具合が宜しい。なので時々泊りたくなる。何の為と云へば泊る為に泊るので、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にもきつと、さういふ衝動を感じた経験があるのではないか。無駄または不要乃至贅沢と非難される可能性はあるとして、では無駄または不要乃至贅沢で何か問題があるのか知らと、小さな聲で呟いてはおきたい。第一、高々数千円で無駄も贅沢もあつたものではないでせう。仮にそれが實際問題として無駄或は贅沢な状況だとすれば、行かなければ済むだけの話で、娯樂は元からさういふ性格をしてゐるものだ。更に云ふと、汽車賃の方がお財布への負担は大きくて、たとへば新宿から甲府に行くとなると、特別急行列車を使つて往復で一泊分くらゐのお金がかかる。そこに罐麦酒や葡萄酒やお弁当やおつまみを買ふ分を含めると、中々どうして侮れない額になる。そこをあんまり意識せずに済むのは、往復で分割されてゐるからで、要するに錯覚である。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にはご用心召されたい。

 併しとこの辺から本題になつてきて、詰り特別急行列車の乗客になる場合、罐麦酒でも葡萄酒でも我慢するものだらうか。或はお弁当にしてもおつまみにしても、遠慮がちになるものだらうか。自分でおにぎりなりサンドウィッチなりと、ちよつとした煮ものを用意するのだつて、愉快なのは確かだし、その用意自体が特別急行列車に乗る樂しみでもあるだらうとも認められはするのだが、だつたら朝早い驛弁屋であれかこれかと迷ひつつお弁当を撰ぶのだつて、特別急行列車に乗る樂しみの筈で、それで云へばわたしは後者を好む。自分で用意するおにぎりやサンドウィッチは自宅で食べられもするが、驛弁は特別急行列車の車内でなければ食べられない。百貨店の催しもので買へますよと親切なひとか云ふかも知れないが、幾らわたしでも驛弁を家で食べるほど堕落はしてゐない。いや眞顔で云ふのだよ、わたしは。驛弁は(特別急行)列車で食べるのが一ばん旨い。そんな風に作られてゐるものなんである。

 更に云へば、席に坐つてそそくさと食べだすのは、どうもちがふ気がする。たとへば東海道新幹線で東京驛から乗つたお客が、發車前から驛弁の蓋を開け、品川驛を過ぎて新横濱驛に到るまでにはすつかり平らげ、小田原驛が近づく頃には高鼾といふ姿を目にすることがあるが、合理的な時間の過し方ではあるかも知れないとして、ああいふのは詰らない。わたしが東海道新幹線を使ふのは年に一ぺんか二へん程度で、それはビジネスとまつたく無関係だから合理的な態度を取る必要が丸でない事情もあるのだけれど、罐麦酒は兎も角、驛弁は新横濱を過ぎてと決めてゐる。日常的な行動範囲から離れてからの意味で詰り儀式。先に挙げた甲府行き特別急行列車なら、せめて三鷹驛を過ぎてからが望ましいと思ふのも矢張り儀式みたいなもので、莫迦ばかしいと云つてはいけない。儀式はまだ續いて、麦酒を飲みながら包装紙をじつくり眺め、丁寧に開ける。頭の中でファンファーレを響かせ、おかずを包装紙以上に丹念に眺めて、どの順番で食べるかを検討する。かういふ流れを全部含めたのが驛弁の樂しみであり、旨さでもあつて、本來的に驛弁は合理的な食べものとは呼びにくい。なのでどのお弁当を撰ぶのが好もしいかと云へば、あれこれと目移りのする幕の内弁当式がいい。

 俵型のごはんに胡麻塩と梅干し。

 鰤の照焼き。

 コロッケと白身魚のフライがそれぞれ半切れ。

 佃煮。

 がんもどきと大根と人参と蒟蒻を炊いたの。

 甘辛い肉の欠片。

 餡掛けになつた鶏のそぼろ。

 焼賣。

 春雨の酢のもの。

 ケチャップまみれのスパゲッティ。

 何をどの順番で食べてもかまはない渾沌がそこにはあつて、慌てず焦らず、併し麦酒や葡萄酒の手持ちと、飲む順番と、降りるまでの時間を考慮して、お箸をつける。大きなことを云ふなら、これが豊かな時間であり、それは無駄または不要乃至贅沢を別の言葉でなければ行為に置き換へた結果でもある。或は麦酒で賑々しいお弁当を樂しむのは当り前の態度で、その当り前が当り前のままであるのが文化なのだと云つてもよささうに思へる。随分とえらさうになつてきたが、ここでひとつ、機会を作つて計劃を練つて再び宇都宮に足を運ぶとして、驛弁を満喫出來る特別急行列車が見当らないといふ問題に気がついた。大宮から新幹線に乗るのは考へられても、高々半時間なので、これではまつたく落ち着かない。新宿から宇都宮の間には、文化の成り立つ余地が少ないらしいと云つて、腹を立てるのは新宿人なのか、宇都宮人なのか。