閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

134 あれを喰はすな

 定食の看板…ことに日替り定食の品書きは時に空腹をひどく刺戟することがある。何がどうと訊かれてもこまつて、空腹とはさういふ状況を意味するのではないだらうか。

 本当は家で素麺を茹がかうと思つてゐたのだ。葱と生姜、温泉卵で三束。温泉卵とは妙だなと思はれるかも知れないが、案外と惡くない。さういふ懐の深さが素麺の秘密である。序でながら藥味に関しては『檀流クッキング』に小気味好い一節がある。そこまで凝るかどうかは別として、兎に角素麺を茹がく積りでゐたのだ。

 それでちよつと買ひ物を済ませて帰る途中、うつかり目に入つたのが、日替り定食の品書きで、そこには“豚肉と茄子の甘辛炒め”とあつた。これはまづい。いや旨いまづいのまづいではなく、旨さうだと感じたのでまづいと思つたので、何を云つてゐるのだらう。さう。簡単に食慾を刺戟されて仕舞つたと云へばよかつた。だからさう云ひなほす。暫し考へたが、刺戟された食慾は抑へ難かつたので、暖簾をくぐつた。ここであはてて念を押すと、このお店では何度か定食を食べたことがあつて、詰り旨いのは知つてゐる。

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 「豚肉茄子の定食を頼みます」

 「ごはんは」

と云ひかけた女将さんは普通盛りですかと確認してきた。晝の定食はごはんの大盛りが無料になるのだが、わたしが都度、普通盛りにしてもらつたのを、何となく思ひ出してくれたのだらうか。前に一度、他のお客が頼んだ大盛りごはんを見たことがあつて、とてもわたしの胃袋に収まらない。

 炒めあげられたのは豚肉と茄子の外、玉葱にピーマンと蕈。

 豚肉と茄子を一緒に食べる。

 旨い…と思ふ前に熱い。

 強い火を一ぺんにとほしたのだらう、茄子の水気がきちんと残つてゐて、それがまた熱い。

 味つけは醤油がベースで辣油とおそらく味醂がサポート。塩梅は宜しいが、どうやら茄子の水気の考慮がやや足りなかつたらしく、後半がやや物足りない感じがされた。油や味噌を使つてもう少し、くどいくらゐの仕立てにしてもよかつたんではないかな。茄子は妙な野菜で、揚げ浸しのやうにあつさりさせるか、麻婆茄子のやうにこんがらかつた濃い味つけか、両極端でないと旨くない。…いや断定するのは茄子に対して不公平か。わたしが茄子を(それなりに)旨いと思ふようになつたのは、この三年とかそれくらゐだから、茄子の旨いところを十全に解つてゐない確率は相当に高い。謙虚になるのは、わたしが謙虚だからではなく、色々云ひつつ、この定食を平らげながら、ごはんを大盛りにしてもよかつたかと思つた所為で、さうすれば丼めしのやうに出來て、これなら食べられた筈である。それともごはんは少なめにしてもらつて、麦酒を註文するべきだつたか。そんなことを後から考へて、かういふ迷ひを起させる茄子を嫁に食べさせないといふあの俚諺は、どうも何やら疑はしいのではないかと更に考へた。だつて嫁と一緒に食べる方が旨いにちがひなく、ここでわたしに嫁がゐないことは、ささやかな問題に過ぎない。