閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

146 用意してもらふ

 その気になれば毎日でも食べられさう…詰り用意が大して面倒ではない(筈な)のに、意外と距離のある食べもののひとつに、目玉焼きを挙げたい。どうです、割りといいところを衝いては、ゐないだらうか。念の為に云ふと、まつたく作らないわけでなく、食べると旨いとも思ふ。なのに作らうとは考へにくい上、外でわざわざ食べたいとも感じにくい。

 何だらうね、この気分は。

 漠然と想像するに、料理としては単純(但し美味く作るのが単純の意味ではなく)だが、掛かる手間が面倒に感ぜられるからではないか。

 フライパンを温めて油を敷き、卵をそつと割り入れ、火を止めて少し蒸し、お皿に乗せる。

 こんなのが面倒なのかと訊かれたら、さう感じることもあるのですと、腰を低くして応じたい。特に“純目玉焼き”…ここでは一応、卵だけで作つたもの、くらゐの意味合ひ…の場合、その可能性が高くなる。要は“純目玉焼き”を、“火の具合に注意を払つた”玉子焼きの一種だとすれば、わたしの言辞にも多少の説得力が加はるのではないか。併しハムの類があれば、話は異なつてもくると指摘されさうだが、それは目玉焼きの實力といふより、豪華な助つ人のお蔭が大きいでせう。第一、朝晝夜、いつ用意すればいいのか。

 とは云へ、あると嬉しい。

 それが目玉焼きの奇妙なところで、さうなるとわたしにとつて理想的なのは、“たれかが用意してくれた”目玉焼きではなからうかと思へる。これなら朝晝夜のいつだつていいし、サニーサイド・アップでもターン・オーバーでもいい。出來れば黄身は半熟であつてほしいけれど、作つてもらふのだつたら、煩くは云ひません。我が儘は控へなくちやあ。

 さ。そこでだ。そこでですよ、その(わたしの為に用意してもらへた)目玉焼きを平らげるのに、どの調味料を使ふのか。これは問題である。黄身をどの時点で、どう食べるかにも関はる大問題だと云つてもいい。なので先に云ふが、この稿で結論は出さず、示唆に留めることにしたい。そしてここでは、おかずとして出される“純目玉焼き”を対象としたい。サニーサイド・アップやターン・オーバーは問はないが、ハムやウインナやベーコンは仮にあつても、目玉焼きとは別に用意されるものとする。

 先づごはんの場合、これは圧倒的に醤油であらう。塩胡椒や蕃椒を挙げてもいいが、まあ、惡くない程度と思ふ。大蒜を香りに忍ばせて、青葱を散らしたのを丼めしに乗せ、半熟の黄身を崩しながら食べれば、ほぼ完璧なので、これくらゐにしておく。

 ややこしいのはパンの場合。黄身がやはらかければケチャップやウスター・ソースで。或は少量のマスタードやチリー・ソースを隠したマヨネィーズも宜しからう。これはお皿に乗せ、黄身を慎重に崩しながら食べたい。お皿に残つた分は、パンの切れ端で綺麗に拭ふ。黄身を固く仕立てるなら、黒胡椒を挽くのがいい。バゲットに乗せれば黄身をどこで食べるかを悩まずに済むし、これなら意外と葡萄酒に適ふかも知れない。併しかう考へれば、色々撰べはするけれど、“純目玉焼き”だけではパンに対して些か弱い。但しその弱さは“純目玉焼き”の場合に限られてゐるとも思へて、さういふ縛りを外す…詰り助つ人に活躍してもらふと、目玉焼きの相棒はパンの方が相応しい気がされる。

 卵を二個、出來れば三個以上を使つて、ハムやベーコンを一緒に焼く。それからウインナと賽の目馬鈴薯を炒めて塩漬けのキヤベツを添へ、一枚のお皿に盛る。黒胡椒に粒マスタードケチャップ。トースト、バタ、ママレイド。これで収めて紅茶を淹れれば、吉田健一の云ふ英國的な朝食になる。我慢せずに半ダースの牡蠣と白葡萄酒に手を伸ばし、序でにチーズとブランデーと珈琲まで用意してもらへたら、如何にガルガンチュワな胃袋の持ち主でも、顔を綻ばすだらう。ごはんだとかういふ想像は膨らみにくいもので、優劣とは別の話なのは勿論だが、目玉焼きに限れば、パンの優位は動かない。ただここで幾つかの問題があるのもまた事實である。第一にそれだけの量を食べるのに、わたしの胃袋が小さいこと。第二には仮に食べられる調子としても、食べ尽すにはきつと二時間くらゐは必要な筈で、胃袋の調子とそんな時間がぴつたり一致するのは困難だらうこと。何よりかういふ献立は用意してもらふのが花なので、さてたれにお願ひすればいいのか。これは焼き方より調味料より遥かに難題で、今のところ解決の見通しは立つてゐない。