閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

167 劣等感

 詩といふものが解らない。これは長年抱く劣等感で、今まで解らなかつたのだから、今後も解る見通しはない。ああいふ言葉の群れは、何かしらを感じとれるひとと、さうでないひとに分別出來て、わたしはきつと後者に属するのだ。残念だけれど、やむ事を得ないだらう。

 自分の弁護の為に云ふと、一から百まで丸で解らないわけではない…と思ふ。たとへばホメロスは何度手に取つても讀み耽つて仕舞ふ。尤も『イリアス』にしても『オデュッセイア』にしても、詩として讀んでゐるのかと云へば甚だ怪しくて、寧ろ調子のととのつた美しい文章(松平千秋先生の麗訳に神々の誉れよあれ)を愉しんでゐる気配が濃厚なので例外であらう。では狂歌や川柳はどうかとなつて、ごく一部はにやにや出來るが、大半は当時の時代背景や流行、慣行を知らなければ、何を云つてゐるのか、首を捻るにとどまるし、特に狂歌は和歌のパロディ仕立てになつてゐることが少なくないから、笑へても上つ面だけであつて、これまた解つてゐるとは云ひにくい。

 併しまあ、定形なら、詩が解らなくても愉しめる。形が定まれば、そこに言葉の工夫が凝らされる余地が広くなるし、さうなれば仮に表ツ面だけでも愉快の余地が更に広くなる。表ツ面といふのは、短詩の場合、パロディや語呂合せや同音異義語の多用で、意味を二重三重にすることが少なくないからで、[159 タツタガハ]でも少し触れた素養に大きく左右される。それでも比較的にしても讀む苦心は少なくて済む。問題…こちらにとつての、だが…は散文詩。たとへば萩原朔太郎の『天景』


 しづかにきしれ四輪馬車、

 ほのかに海はあかるみて、

 麦は遠きにながれたり、

 しづかにきしれ四輪馬車。

 光る魚鳥の天景を、

 また窓青き建築を、

 しづかにきしれ四輪馬車。


のやうに文語で韻律も調つてゐたり、口語でも谷川俊太郎の『ベートーベン』


 ちびだった

 金はなかった

 かっこわるかった

 つんぼになった

 女にふられた

 かっこわるかった

 遺書を書いた

 死ななかった

 かっこわるかった

 さんざんだった

 ひどいもんだった

 なんともかっこわるい運命だった


 かっこよすぎるカラヤン


のやうに辛くちなタクトが巧妙に振られてゐれば(ベートーベンへの揶揄が最後の一行で鮮やかに引つ繰り返されてゐる)まだしも、さうでなければただの散文と何がちがふのか、さつぱり解らなくなつて仕舞ふ。そつちの實例は挙げないけれども、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏だつて、似た経験をお持ちではあるまいか。

 かう云へば、朔太郎でも谷川でも、素晴らしい言葉の藝なんだもの、丸太辺りでも解るだらうさと笑はれる可能性はあるが、開き直ると丸太如きにも、さう感じさせてやつと詩(といふ解らないもの。たれかの定義を借りれば“ちから入れずしてあめつちを動かす”魔法)の入口ではないのか知ら。それを正面から、或は逆説的に證明した大岡信の高名な『地名論』を引く。すべての言葉や文字や改行は、必要であり十分でもあつて、どこに手を触れても、地名論は地名論でなくなつて仕舞ふ。かういふものをわたしは絶対に書けない。ああ、これもまたきつと、劣等感の露呈なのだらうな。


 水道管はうたえよ

 御茶ノ水は流れて

 鵠沼に溜り

 荻窪に落ち

 奥入り瀬で輝け

 サッポロ

 バルパライソ

 トンブクトゥーは

 耳の中で

 雨垂れのように延びつづけよ

 奇体にも懐かしい名前をもった

 すべての土地の精霊よ

 時間の列柱となって

 おれを包んでくれ

 おお 見知らぬ土地を限りなく

 数えあげることは

 どうして人をこのように

 音楽の房でいっぱいにするのか

 燃え上がるカーテンの上で

 煙が風に

 形をあたえるように

 名前は土地に

 波動をあたえる

 土地の名前はたぶん

 光でできている

 外国なまりがベニスをいえば

 しらみの混ったベットの下で

 暗い水が囁くだけだが

 おお ヴェネーツィア

 故郷を離れた赤毛の娘が

 叫べば みよ

 広場の石に光が溢れ

 風は鳩を受胎する

 おお

 それみよ

 瀬田の唐橋

 雪駄のからかさ

 東京は

 いつも

 曇り