閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

175 燻す

 『リングにかけろ』といふ漫画に登場するキャラクターの志那虎一城の綽名が“燻し銀”であつた。それはいい。いいのだが、設定として見れば、志那虎は中學三年生なのだから、“燻し銀”は幾ら何でも無理があるだらうと思へるのをどうにか押し通すのが車田正美流か。それで考へてみると、燻すといふ言葉を目にしたおそらく殆ど最初が、志那虎の綽名ではなかつたか。“人事を尽し、天命を待つ”を知つたのは『ドカベン』の里中智で、肩肘の故障がはつきりしてゐたから、二年の春撰抜以降(里中の故障は一年夏の準決勝で、犬飼武蔵の送球を後頭部に受けて、その負担を抑へる為にフォームが崩れたからだが、その辺の話は後年、忘れられてゐる)の科白である。尤も『ドカベン』で一ばん痺れたのは、岩鬼正美が星王から本塁打を放つた時(星王の股間を抜けた打球がそのまま伸びて、バックスクリーンに突き刺さつた)の、“ファンの期待は裏切らん”で、かういふプロ野球の撰手がいつか登場しないものかとわたしは待つてゐる。併しこの稿は漫画の綽名や痺れた科白を紹介したいのではなかつた。

 ええと。

 さう、燻す。

 これが調理法の一種と知つたのは随分と後になつてからで、たとへばベーコンもその一族に含めていい筈なのに、まつたくのところ、無頓着であつた。尤も少年の頃のわたしはベーコンを好まなかつたし、スモークト・サモンなんて名前も知らなかつた。詰りさういふ食べものに縁の遠い食事だつたことになる。煙でどうかうするなんて、きつと焦げた厭な匂ひのする、いがらつぽい食べものにちがひないよ。さう思つてゐたのが、いつ頃から好物になつたのか知ら。確實な記憶は精々が数年前までしか遡れない。[Smoke Salt]といふシガー・バーで食べたのはチーズの燻製だつた筈で、あれはえらく旨かつた。それからどこだつたか、丸で記憶にないのに、秋田料理の店で鰰と一緒に出してもらつた燻りがつこは忘れ難いから、あれも旨かつたのは疑念の余地がない。それから[小澤酒造]の“澤乃井園”に今もあるのか、豆腐や茹で玉子の燻製も素敵で、さう考へると、燻すといふ手法は、わたしが思ふより遥かに奥が深い。厭な匂ひもいがらつぽさも、勝手な決めつけだつたわけで、燻製の發見者にはこの場をもつてお詫びを申し上げる。

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 その反動なのだらう、飲み屋の品書きに“何々の燻製”とあると、どうも落ち着かなくなる。正直なところ、その燻し方が相応に上手とは中々思へないのだが、こちらの好みに嵌まると堪らないのもまた事實なので、うつかり註文して仕舞ふ。画像はその一例で、品書き通りに書けば“さばくん!”である。ご覧の通り葱が添へられてゐたが、残念ながらそれだけでは(わたしの舌に)少々、妙な癖が感じられた。妙な癖といふのは、如何にも燻製にしましたよと云はん計りのわざとらしさであつて、つまみながら不意に雪の熱海で食べた鯖の開きを思ひ出した。記憶の分だけ都合よく修整されてゐる可能性は認めつつ、併しあれはただの干物で、それが旨かつた。銘柄を失念した駿州のお酒とあはせたのがよかつたのだらうか。さういふことを考へつつ、“さばくん!”は、辛子醤油でわざとらしさを抑へながら食べたいものだと思つた。それだつたら、これこそ燻し銀だと、冒頭に巧く繋げられたのに、残念だなあ。