閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

182 尤もな嘆き

 クリスティの『オリエント急行殺人事件』を初めて讀んだのは小學生の時である。母親の本棚から創元推理文庫版を取り出した。翻訳の健筆をたれがふるつたかは記憶にない。大佐や伯爵夫人、富豪に秘書と今にして思へば、まことにクリスティ的な登場人物が、まことにクリスティ的な仕草と会話…優雅で皮肉つぽい、紳士的淑女的な…をする探偵小説は、十一歳には早い美酒だつたか。さこで酒精から距離を取つた方向に進むと、ご婦人方が水について不満を洩らす場面があつた。エヴァン水もヴィシー水も無いなんてと嘆くのだが、昭和後半の小學生には当然、何のことやら、判らない。なので讀み飛ばした。十年余り過ぎたある日、立花隆の著書に、翻訳もので解らないところは飛ばしてもいいと書かれたのを目にして、当時の自分は正しかつたのだと思つた。勿論これは短絡にも程がある見立てで、偶々さうではなかつたから助かつたけれど、エヴァン水やヴィシー水が謎解きの大きな鍵になつてゐた可能性だつてあつたのだから。

 水に銘柄があるとは知らなかつた。冷静に思ひ出すと、その頃に“六甲のおいしい水”はあつた筈だし、ひよつとして“南アルプスの天然水”もあつたかとも思へるが、丸太少年にとつてそれはよく判らない飲みものだつた。台所に行つて蛇口を捻ると出てくるのが水で、マーケットだか自動販賣機だか、わざわざ買ふものではない。…と思つてゐたといふより、そこまで考へが到らなかつたといふのが事實に近い。今ではほぼ毎日、飲んでゐる。方向の大転換なわけで、ただ何が切つ掛けだつたのか、さつぱり記憶にない。水を飲むのを明らかに意識しだしたのははつきりしてゐる。ある酒藏の見學に行つた時、案内を担当してくれたひとが

「たとへば一合のお酒があれば、一合のお水を飲みませう。さうすると第一に宿醉ひしにくくなりますし、第二に口を洗へるから次の一ぱいと肴を美味しく味はへるのです」

さう、教へてくれた。“和らぎ水”と称するさうで、その日その晩は猪口に一ぱい呑んだら、お水を同じだけ飲んで、さうしたら翌朝はいつもより宿醉ひの度合ひがましに感じられた。大した効きめである。偽藥効果だよと云はれるかも知れないし、何しろわたしは素直なたちだから勘違ひがあつても不思議ではないが、さう感じられないよりは有り難い。ここで藏の担当者の名誉の為に念を押すと、程度のちがひはあれ、効果は期待して間違ひはない。ところでオリエント急行にも立派な食堂車があつて、大佐も伯爵夫人もそこで優雅な食事と共にを葡萄酒を味はつた筈である。そこで“和らぎ水”として提供されるのがエヴァン水やヴィシー水だつたら、品切れは翌朝の宿醉ひといふ不安に直結したにちがひない。さう考へると、ご婦人方の嘆きもむべなるかなと思はれてくる。