閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

183 パンツを洗ふ

 神無月は毎日、更新をする。さういふ方針を作つて、さうしてみた。やつてみると、えらくきつかつた。ざつと見返してみたが、無理やりに書いた感が可成りされる。当り前である。そんなに毎日、書くことがあるものか。義務を負ふわけでなく、報酬をもらへるわけでもないのに、何とはなしに追ひ掛けかけられる気分になつて、尻の坐りが甚だ宜しくなかつた。

 余談と寄り道をたつぷり書く癖があるのも、坐りの惡かつた理由のひとつではないかと思ふ。どうしても長くなるし、長くなると書く時間が取られる。日々書くだけでいいなら、それでも何とかなつたかも知れないが、米を研がなくてはならないし、パンツを洗はなくてもならないし、罐麦酒だつて飲まなくてはならず、さうなると非常な無理がある。全体的に短めなのが多くなつたのは、そのやむ事を得ない事情ゆゑであつた。

 併し短く書くのが早くて簡単かと云へば必ずしもさうではない。余談や寄り道は要するに膨らし粉なので、用ゐればそれなりの恰好を調へられる…調つてゐると見せ掛けられると云つても、大間違ひではない。夜のお嬢さんの化粧と云つてもいいし(それはそれで大変なのだらうが)、ソフトフォーカスを安直に用ゐたポートレイトにも喩へられるし、或はソースに頼りきつた西洋料理と見立てませうか。

 長文を西洋料理と見るなら、短文は日本料理だらうとは、当り前の譬喩だが、そこは勘弁してもらひたい。實際、短く纏めるのは、単に短くすれば済むのではなく、隠し庖丁や香味のあしらひといつた工夫…文章の技術で云ふレトリックが求められる。念の為に云へば、長い短いに関はらず、レトリックが大切な技法なのは今さら大聲を出すまでもない。ただ短文を相手にする場合、余程慎重でないと、長文と異なつて誤魔化しにくい事情は確かにある。

 さう考へると、パンツを洗ひながら、ざつと短文を書いたのは、文章を表藝と称するわたしの失敗だつたなあ。反省してゐます。とは云へパンツを洗ふのをやめるわけにもゆかない。さうなると撰べる方法は相応に絞られる。尤もどう気張つたところで、自分の器から溢れる文章をものにするのは無理である。パンツを洗ひ、米を研ぎ、また罐麦酒だつて嗜みつつ、この手帖は書き續けてゆく。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には寛容と諦念をもつて、お付合ひとご贔屓を御願ひ奉る。