閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

234 積極的に

 前々回、前回とパナソニックGF3を題材にはしやいだので、それに関連させ、もう少し續ける。

 GF3はマイクロフォーサーズ(以降はMFTと略す)といふ規格を採用してゐる。MFTはフォーマットの大きさのひとつ。ほらフルサイズとか、APS‐Cとか、聞いたことがあるでせう。あれらの中でMFTは小さい方に属する。

 この小ささに長所短所があるのは勿論で、長所短所は使ひ方の範疇だから区別せずに云ふと


①ボディがそれなりに小さく出來る。

②レンズは中々小さく出來る。

③ぼけを出しにくい。

④望遠の撮影に強い。


ことが挙げられる。③に関しては異論もあるだらうが、基本的にはさうだと考へればいい。いづれもMFTといふ大きさ…小ささゆゑか。わたしの場合だと、④以外は長所と呼べる。ことに①と②の組合せは大切である。

 小型軽量。

 且つそこそこ寫るのがMFTの利点。そこそこでは困る。何がなんでも画質なのだと云ふひとは、より大きなフォーマットを使へば宜しい。但しボディやレンズの大きさと重さは、そのサイズに正比例するから、色々の覚悟は必要になるが、わたしはその覚悟を持合せてゐない。

 といふより、わたしくらゐ擦れると、カメラとレンズの性能が、寫眞と直接関係しないのを理解出來るから、大きく重い、持ち出すのに躊躇はれるフォーマットを撰ばうとは思はなくなる。極論を云ふと(失敗りの可能性は高くなるかも知れないが)、使ひ捨てカメラでも優れた1枚は撮れる。寫眞といふ遊び…稀に表現であり藝術は、技術(テクノロジ)ではなく、技術(テクニック)に属するからで、さう考へれば、非常にプリミティヴな樂しみだとも云へる。

 話が堅苦しい方向に逸れさうだ。

 元に戻しませう。

 勿論、室内…家の中でもスタジオでも…で撮らうといふなら、フォーマットの“小ささ”に膠泥しなくてもいい。ジッツオやハスキーを立て、フルサイズでもブローニーでも好きに出來る。或は明確な目的があるなら、合目的的なカメラ(とレンズ)を撰ぶのが正しい。当り前の話。この手の撰択をするひとはプロフェッショナルか、それに近いと思はれて、詰りわたしとは丸でちがふ。こちらは何といふ理由もなく持出し、何といふ理由もなく撮る為のカメラだから、ジッツオもブローニーも遠慮したい。

 成る程、それでMFTか。とは云へ小さいのが好もしいなら、1インチのニコン1や更に小さなフォーマットのペンタックスQがあるよ。といふ指摘があつても不思議ではない。そこは尤もであると、一応は認めた上で、併し手に持ちまた撮るには、掌に適切な大きさがあるもので、わたしにとつてはとちらも小さすぎるのだと呟かざるを得ない。仮にその点は目を瞑れたとしても、操作性がたいへん惡くなるのは我慢ならない。その点を含めると、MFTくらゐが限界のサイズだらう。


(但し我がGF3の操作性が優れてゐるとはとても云へない。“解り易い”タッチパネルに機能の多くが隠されてゐる所為で、露光補正も面倒になる。にも関はらずそれを諒としたのは、ボディキャップ・レンズを使ふといふ目的なら問題にはならないと判断したからに過ぎず、もしMFTの1台目を撰ぶとしたら、検討の対象にも挙がらないことは、念押ししてもいいと思ふ)


 要は“失敗りの恐れが(比較的)少なく”、また“操作に不便が(少)ない”、それで“持ち歩くのに躊躇を感じにくい”バランスを感じられるのがMFTなんである。勿論この感覚はわたしひとりのもので、ライカM3こそ最高ですとか、ニコンDfに勝るものはないのだよとか、さういふ意見があつても不思議ではなく、またそれらは、それぞれの個人で正しい。その中で“敢て”ではなく…“敢て”といふひとは少なからずゐるのだが…積極的にMFTを撰ぶ人間もゐるのだと主張してみたくなつた。最後にひとつ文句を云ふと、この3年くらゐ、MFTのボディはスタイリングが本当に酷くなつてゐる。無闇に巨大なフラグシップと玩具めくエントリーに別れて仕舞つて、これぢやあ(最初の)撰択肢には入れない。勿体無いと思ふんだがなあ。