閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

236 ハレでもケでも

 お餅は年に一ぺんくらゐしか食べない。云ふまでもなく正月元日がその時で、焼いたお餅を浮べた澄し汁である。だからお雑煮と呼ぶのは六づかしい。手抜きと思はれるやも知れないが、丸太の實家は元々、御節にはさう熱心でなかつた結果だから仕方がない。わたしじしん、喜んで食べたのは蒲鉾と昆布巻きにお煮〆、後は棒鱈(母方の祖母が焚いてくれたのは世界一うまい棒鱈だつた。何とかもう一ぺん食べたいが、祖母は西方浄土に行つたから、再会出來るのはもう何年か後になる)くらゐのもので、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも似たやうな気分を感じるひとがゐるのではないか。

 併しこの何年か、そのお雑煮…訂正、お餅入り澄し汁はわたしの樂しみで、樂しみにするのはちやんと理由がある。母親の友人が新潟に住んでをられ、毎年お餅を送つて下さるのだ。歯応へがあつて粘つこく、微かな甘みが感じられて、實にうまい。丸太家の元日は大体午前八時くらゐに起き、佛壇にお供へをしてから卓につき、お芽出度うを云ひ、お酒を一ぱい飲んで始まる。不肖の倅は起き抜けに丸で食慾を感じないのだが、この日計りは別で、お餅の澄し汁が待ち遠しい。父親も似たやうな気分になるらしく、胃の三分ノ一を切つてゐるのに、澄し汁でひとつ、焼いたのを砂糖醤油でひとつ、喉に詰めやしないかといふ倅の心配を他所に平らげる。新潟のお餅、恐るべし。

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 ではそれから毎日、お餅を食べることになるかといふと、何故だかさうはならない。習慣の問題なのかとも思ふが、簡単に断定していいものか、どうか。自信が持てない。

 落ち着くと、お餅は作るのにたいへんな手間がかかる。(糯)米を蒸して撞かなくてはならず、詰り蒸す装置と撞く道具が不可欠である。どちらもかなり高度な技術であらう。また食べる時にも、黄粉や餡、醤油の類や、大根おろし、海苔が必要にもなる。とすると、お餅はとんでもなく豪華な食べものと云つていい。然もうまいのだから、ハレの日の食卓に相応しい。…といふ歴史、伝統が我われの心の奥底に仄暗くあつて、平日(ケの日)には食べない、食べたいと思ひにくいのではないか。根拠のない想像だから、信用されても困るけれど。

 その贅沢な食べものを汁ものに仕立てれば美味いんぢやあないか、と考へたのはたれだらう。もしかすると最初は、冷めて堅くなつたお餅を柔らかくする工夫だつたか。お湯で温めるたれかを見た別のたれかが、そんなら

「汁椀に入れる方がいいぞ」

とか何とか云ひ出して、お吸物の余りにはふり込んだのがそもそもだつた…気がされなくもない。食べてみるとうまい。それで菜葉や根菜を追加し、澄し汁だけでなく味噌も参加させ、鶏肉やら鮭やらも一緒になつて、全國の様々な(時に豪奢、時に簡素な)お雑煮になつていつた。といふのは勿論わたしの想像だが、由來が判然としない食べものは大体、手抜きや間に合せか、さうせざるを得なかつた地域の事情か、何にも意図のない偶然か、そんなところが始りと相場が決つてゐる。

 かう書きながら、贅沢で豪華な食べものとは云へ、現代のお餅は手に入れるのにさほどの苦心も要らないと思つた。厳密なひとは、マーケットで賣られてゐる眞空パックをお餅と呼ぶのは誤りだよと渋い顔をするだらうが、さう云ふ厳密なひとは厳密なお餅を召し上がればよい。マーケットで賣られてゐる以上、ハレの日でなくても買つてはならない理由はないし、買ふのならケの日に食べたつてかまふまい。小さいのを焙つたのに、大根おろしと青葱と醤油を用意すれば、同じお米出身なのだから、お酒にもきつと似合ふ。幾らなんでもそれは(贅沢に過ぎて)ご先祖に申し開きが出來ないといふなら、水炊きに薄く切つたお餅を入れる手もある。白菜や葱や榎茸やしめじや豆腐と一緒に食べると實に旨い。これならハレでもケでも、お酒にあはせて平気にちがひない。