閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

251 せんべろから考へる

 “千円でべろべろになれる”から、略して“せんべろ”と呼ぶのだといふ。略す前も後も、綺麗な響きではない。併し綺麗でない響きが、その意味するところには似合つてゐるとも思はれる。ところでこの場合の千円は外で呑む場合の予算を暗示するのだが、では平成最末期の現在、“せんべろ”は可能なのだらうか。

 時折り潜り込む廉なもつ焼き屋で考へると、焼酎ハイの類が三百円くらゐだから三杯は呑める。別の呑み屋ならホッピーがあつて、中身を二杯追加出來る。ただどちらにしても、“べろべろ”には到らないし、つまみものの註文は無理だから困る。そこで方針を改め、家で呑むのも含めることにすると、廉価一方でよければ、罐入りの酎ハイといふのがある。うまくすれば一本百円とかそんな値段なので、五本計り買つて、残りを弁当か何かに当てる方法はある。酎ハイは余りと云へば余りだといふなら、五百円くらゐの葡萄酒にしてもかまふまい。これなら千円札一枚で収まる。尤も収まつて、また醉ひもするだらうが、それだけの話でもあつて、翌日に惡醉ひが残るのは疑念の余地がない。それなら一本のヱビス・ビールとちよいと気張つた弁当の方がいい。

 何だか詰らないね。

 ここで慌てて念を押すと、店で呑むのは(多少なりとも)馴染んだ東京は中野や東中野を想定してゐて、赤羽に東十条、或は北千住やら船橋やらに行けば、事情がまつたく異なる可能性はある。試したことがないから、論評は差控へるとして、實際がどうなのかは気にならなくもない。探検してもいいかと思はれるが、たれかに聲を掛けるのは躊躇はれる。この辺りは“せんべろ”の響きの惡さなのだらう。

 併し手がないわけではなく、都内在住者には中央線がある。正確には中央総武緩行線だつたか。中野を過ぎて高円寺から三鷹にかけては、未踏の土地で、それはごく簡単に終電の時間がよく判らないのと、仮にその終電を逃したとして、歩いて帰れる見込みが薄い(高円寺くらゐなら何とでもなりさうではある)からだが、あの辺は二十三区内と毛色がちがふ印象がある。何がどうちがふのかを具体的に述べるわけにはゆかないが(何せ未踏の地だもの)、酒代に含まれる土地の値段の割合ひが小ささうな感じがされる。二十三区内に較べて田舎の雰囲気が残つてゐると云つてもいいし、もつと単純に若ものが多いから、高い値段では商ひにならない事情があるのだらうと、想像を逞しくしてもいい。かういふ推察が正しければ、あの沿線は一ぺん、じつくり歩く必要があることになる。

 何の話だつたか知ら。

 さう。“せんべろ”、“せんべろ”でした。

 若ものが多い町であれば、“せんべろ店”は少なからず、あるだらうと思ふのは短慮に過ぎる。かれらはわたし(敢て我われとは云はない)とちがつて、呑まない…呑む愉しみを知らないから、さういふ方向への慾求または工夫に興味がない。そのこと自体は非難に値しないとしても、もしかして気取つた若もの向けの(詰りお洒落な気分があるだけで、中身は大したことのない)お店計りだとしたら、それは有り難くない。かう書くと

「煮物に焼魚なんて恰好惡いよ」

と反論されさうだが、伊太利でも獨逸でも西班牙でも葡萄牙でも瑞典でも露西亞でも希臘でも、いや我が國に限つても、函館や八戸や盛岡、酒田、仙台、新潟、富山、金澤、鳥取尾道、広島、宇和島、博多、長崎、宮崎、熊本、鹿児島に奄美に沖縄と思ひつくままに挙げた土地に、廉で旨いものは幾らでもあるでせう。それは牛や鶏や豚や羊だつたり、鯖や鰯だつたり、蛸や烏賊だつたり、乳や卵だつたり、馬鈴薯や葱や大根や牛蒡だつたりを和洋中その他の熱温冷に焼揚炒茹蒸烹漬〆で仕立てた食べもので、恰好いいとか惡いとかいふ粗雑な分割にどんな意味があるのだらうか。

 それでさういつた食べものが当り前にあるとすれば、当り前の分は廉価になる筈で、お煮しめにお酒を二本…まあ“べろべろ”は無理としても、千円かそこらで収まるお店が方々にあり、その方々のお店の商ひが成り立つてゐなくてはならない。厭みな言葉を遣ふと、文化はさういふ性質なのであつて、かう考へた時、中央緩行線に期待をするのはどうも無理がありさうに思はれる。尤もでは新宿や銀座や淺草、赤羽十条北千住なら大丈夫なのかと云ふと甚だ心許なくもある。さうなると文化は横に置いて、我われが我われ式の“せんべろ”を探さなくてはならない。事態…いや寧ろ現代はきはめて面倒なものだと頭を抱へたくなつてくる。