閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

266 たくわん

 干した大根を糠や塩で漬けると沢庵になる。わたし好みの表記だとたくわん…尊敬する内田百閒の眞似である。かうして取上げるくらゐだから好物なのは云ふまでもない。


 からいの。

 あまいの。

 分厚く切つたの。

 薄切りにしたの。

 硬いのと軟らかいの。

 細切りやもつと細かく刻んだの。


 實家では祖父母と同居だつたので、堅すぎないのを薄切りにしたたくわんが出てゐた。だから今も厚く切つたのは余り好みではない。


 かういふ食べものの例に漏れず、由來ははつきりしない。かう書くと

「あれは沢庵和尚が考へたんぢやあないの」

と疑義が呈せられさうだが、天日で干すのと塩に漬けるのは、別に特殊な技法ではない。十六世紀末から十七世紀にかけてのひとである沢庵宗彭に考案者の冠を捧げるのは無理がある。


 尤も伝説(のひとつ)では、和尚が居た寺を訪れた徳川家光にこれを振る舞つたところ、時の征夷大将軍がひどく気に入つて

「これは何と申す」

「さて。蓄へた漬け物に御坐れば」

「蓄へ漬けでは勿体無い。これよりは沢庵漬けと呼ぶがよい」

それで名も無い大根の塩糠漬けがたくわんに出世したといふ。さうなると胡瓜や白菜や野沢菜の立場はどうなるのか。これは禅僧と征夷大将軍…飄々とした自由人と武張つた権力者…の取合せが我われ(とご先祖)の好みに適ふのだらう。


 飄々としてゐるわけでなく、権力者でもない男(わたしのことだ)は、ただ食べる。お漬け物は大体の場合、呑む時に慾しくなるものだが、たくわんは例外である。先に述べたとほり、堅すぎない薄切りの梅酢たくわんがいい。ごはんがあつて梅酢たくわんがあつて、そこにお味噌汁のひと椀も添へれば、その食事は完結すると云つてもいいでせう。胡瓜や白菜や野沢菜でも食事は成り立つけれど、どうしたつて熱いのを一本、つけてほしくなるから、完結には到らない。


 何だか恰好をつけてゐるなあ。

 と云はれたら、頭を掻いて誤魔化さなくちやあならないが、沢庵宗彭は佛門のひとである。佛門といへば

「葷酒山門ニ入ルヲ許サズ」

なのだから…葷は韮や葱、大蒜の類を指すさうだが…、勤行の後、大根の蓄へ漬けで一ぱいなんて考へもしなかつたらう。


 本当か知ら。

 何か引つ掛る。


 念の為に確かめると、沢庵宗彭臨済宗の禅僧だが、ざつと二百年前のご先祖(法統の意味で)に一休宗純がゐた。

 さうです、あの一休さん

 風狂奇態、飲酒肉食女犯男色のすべてをこなしたといふから(正確にはそれでゐて、世人の敬愛を失はなかつたから)大したものだ。かういふひとなら、蓄へ漬けで大酒を喰らつても不思議ではないし、その系譜を受け継いだ沢庵の和尚が(こつそり)眞似をしたとしても、矢張り不思議ではない。一休沢庵のやうに豪くはない我われも、偶にはたくわんで一ぱい、呑りませうか。