閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

273 その筈ではないかな

 外ツ國ではどうだか知らないが、我われがコロッケと云ふ時、茹でた馬鈴薯を崩したのを使つたそれを連想する。ベシャメル…ホワイト・ソースを用ゐた場合はクリーム・コロッケであつて、(所謂)コロッケとは別扱ひになる。

 その筈である。

 ではないかな。

 馬鈴薯に申し訳程度の挽き肉と玉葱。それから厚めの衣。野暮つたいくらゐをコロッケの本道と呼びたい。揚げたてでない限り、ウスター・ソースをたつぷり。醤油や味つけぽん酢でも惡くはないが、訳知り顔の厭みを感じなくもない。野暮な本道のコロッケは麦酒に似合ふ。鯵フライとミンチカツとを並べ、麦酒に適ふ西洋式揚げものの“黄金のトライアングル”と呼んでも、苦情の心配はないだらう。

 その筈である。

 ではないかな。

 ここで念を押すのだが、クリーム・コロッケを蔑ろにする積りは毛頭ない。洋食屋自慢のブラウン・ソースをたつぷりかけ、ホークとナイフで食べるのもまた旨いものだと思ふ。ただそれを単にコロッケと呼ぶのには抵抗がある。なのでそちらは敬意を含めてクロケットと呼びたい。

 併しクロケットを嗜む場合は、何を飲めばいいのだらう。洋食屋でなら気にせず麦酒にしてもよささうなものだが、どうもしつくりこない。西洋式を気取るとしたら葡萄酒として、クロケットと共演出來る味の想像(繊細な醸りではクロケットに敗けさうである)が六づかしい。焼酎や泡盛、ヰスキィやブランデーや紹興酒も似合はない。西洋人はどうしてゐるのか知ら。

 話をコロッケに戻しませう。

 云ふまでもなく、歴史の浅い食べものである。クロケットも同様。ヨーロッパ人が本格的に馬鈴薯を食べだしたのは精々十七世紀頃からだし、揚げものといふ調理法が成り立つたのはもつと後になつてから…大量の油と強く安定した火力が必要になる…だらうもの。視線を日本に向ければ、どれだけ早くても十九世紀末より前には(天麩羅といふ例外乃至源流はあるとしても)遡れないから、長くても三百年とかそんな程度であらう。文明史調理史で見れば、最近と呼んでもかまはない。

 その筈である。

 ではないかな。

 だとすれば、コロッケがその僅かな時間で、大衆的なお惣菜にまで変貌したのは事情に不思議を感じる。明治末から大正の初頭にかけては、洋食の中でも高級豪華なグループだつたのに。

 確かに手間の掛かる食べものである。馬鈴薯を茹で潰し、肉を挽き、玉葱を微塵に刻み、衣を纏はせて、高温の油をたつぷり使つて揚げるのだから、手間だけでなく、原材料の元手も掛かる。それにコロッケ(を食べる)人口だつて、現代よりは少なかつたにちがひない。さう考へるとコロッケひとつのお代が高価だつたとしても、一応の納得は出來る。問題はそこからどうやつて大衆路線に転じたかで、すりやあコロッケ人口の増加だよと云ふのは浅薄であらう。コロッケ人口の増加を促す條件が先にあると思はれる。

 その筈である。

 ではないかな。

 先づ西洋化の進む食卓から、“コロッケを(廉に)食べたい”といふ需要はあつた…出來たと見るのは正しい。さういふ慾求を最初に、また敏感に嗅ぎつけたのはたれだつたか、といふのは勿論我われの知るところではない。ではないが、馬鈴薯と玉葱は兎も角、肉と油を扱へて、廉な工夫を凝らせるとなると、矢張り肉屋が妥当かと思へる。或は洋食に押されて頭を抱へてゐた、天麩羅屋の可能性もある。

 少くとも洋食屋が自ら、コロッケを廉価に提供すると考へはしなかつたのは確實である。でなければ現代の洋食屋で供するのがクロケットといふ事情が不明瞭になる。従つてコロッケを廉価なお惣菜に仕立てた栄誉は、洋食屋以外のたれかだと推測…断じても、批判は出ないと思へる。コロッケを廉で賣るなら、コストを下げねばならず、であれば賣りものにならない端肉や、少々草臥れた油を使ふのが早道で、これは洋食屋に撰択し難い方法であらう。

 これを“クロケットの、コロッケへの堕落”と非難することは不可能ではない。西洋式の遵守は流石に極端にしても、変化はより緩やかであるべきだつたと云はれたら、わたしもある程度は説得される。説得はされるのだが、仮にクロケットからコロッケへの推移がもつと緩やかだつたとして、コロッケは安価なお惣菜の代表格にのし上れただらうか。コロッケ人口は今ほどの数には到らず、いいところ、チキンカツくらゐの地位(この際チキンカツの旨さには目を瞑る)に留つたと思はれる。勿体無い。

 こんな風に考へを進めると、肉屋だか天麩羅屋だかが洋食流行りクロケット人気にあやかつて、コロッケを捻り出したのは、曾孫玄孫世代(我われのことだ、念の為)にとつて、まことに有り難い所行であつた。かれらに敬意を示す意味でも、今夜はちよいと贅沢な麦酒で、乾盃をしてもきつとばちが当らないだらう。

 その筈である。

 ではないかな。