閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

286 言祝ぐ

 光格帝…十八世紀末から十九世紀初頭の御門。

 幼名は祐宮(さちのみや)、諱は初め師仁(もろひと)、後に兼仁(ともひと)

 在位は安永八年十一月二十五日から文化十四年三月二十二日。

 崩御天保十一年十一月十八日。

 三十八年に及ぶ在位中の元号は安永、天明、寛政、享和、そして文化。

 仁孝帝を経て即位する孝明帝は皇孫。その後を嗣ぐ明治帝の即位から我が國は“近世”から“近代”に移つた。結果論的に云ふと、仁孝帝に帝位を譲つた光格帝は、近代以前に太上天皇に就いた最後の御門になつた。

 譲位の事情はよく解らないけれど、ごく平和的だつたのだらうと思ふ。徳川の政権は十代家治と十一代家斉の時代。幕府の権力は未だ揺るぐ気配も見られなかつたから、後白河後鳥羽両帝の頃のやうに、世間を引つ繰り返しかねない状況での譲位でなかつたのは確かでせう。

 ごく大雑把に云ふと、藤原氏がのしてきてからの我が國の歴史で、天皇が受持つたのは権威であつた。例外的な一時期を除くと、権力…支配の正当性を担保する印璽のやうだと云つても誤りにはならないと思ふ。現在の権力が弱体化すると、別のたれかがその印璽を持ち出して、新しい権力を樹ち立てる。その最後の實例(今のところではあるけれども)が明治維新で、御門を担いだ側は、そのことを自覚してゐたにちがひない。

 「上皇が出てきて、治天ノ君がふたりになるのはまづい」

 露骨にさう思つたかどうかは知らないが、天皇の権威をもつて政権を獲つたのである。旧政権を支持する、或は自らに敵対する勢力に、“上皇といふ別の権威”を持ち出されるのは具合が惡いのは、肌触りとして理解してゐたらう。御門の即位は先帝の崩御があつてとしたのは、権威の一本化を謀つた知恵と考へてもいい。

 併し光格帝は上皇に就いたぞ。

 ここでさういふ指摘が出るのは当然として、それは安永から文化にかけての徳川の幕府が、出來た計りの復古政府より遥かに安定してゐた…権力が権威を抑へ込んでゐたからだと理解すればいい。裏を返すと譲位…権威の移譲…は、政権…権力担当…が相応に根を張つてゐてこそ、穏やかに行われる性質を持つ。さう考へれば、明仁陛下から徳仁殿下への“権威の移譲”が恙無く進んだのは、今の権力が二世紀前のそれ並みである(間接的な)證だらうかとも感じられる。政治のややこしくも面倒なところはさて措きませう。この手帖は生臭な話題を好まない。

 ではどうすればいいかと云ふと話は簡単で、我われは盃をあげ、まづは令和を言祝ぎたい。お酒でも麦酒でも焼酎でも葡萄酒でもヰスキィでもいい。要は呑む切つ掛けが慾しいだけだね、といふ指摘の正しさには、まつたくそのとほりと応じるが、芽出度いねえと呑む分には、不敬の謗りを受ける心配も無からうといふものです。文化の町民もきつと、芽出度いと盃を干したにちがひない。