閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

287 それではこちらが困るので

 丸谷才一の随筆で讀んだ話。ドナルド・キーンとの対談だか雑談で、日本の近代文學でたれが讀み易いでせうと訊ねたところ、言下に谷崎潤一郎の名前が返つてきたといふ。キーン曰く

「文章の構造が論理的で解り易い」

さうで、このゴシップを初めて目にした時は少々驚いた。大谷崎(ここは“オホタニザキ”と讀んでもらひたい)の文章を讀みにくいと感じたことはなかつたが、かういふ方向からの見立てがあるとはまつたく気づかなかつた。

 あの學究が云ふ“論理的な構造”は、勿論かれの母語である欧文が頭にあつてのことで、これは優劣の話ではないから念の為。外ツ國の文法を云々出來るわけではないから、比較は飛ばすとして、我が國古來の文章が、やもすれば、しどけなくしだらなくなりがちなのは解る。谷崎は英語を學び、また欧文の小説を讀みもして、その辺りの機微を自家薬籠のものとしたのだらう。丸谷の『文章讀本』で精緻な分析があるから、ご一讀あれ。

 さう云へば、明治生れの文士は大抵外ツ國語が出來る。夏目漱石の英語、永井荷風の佛語、内田百閒の獨語。かう云ふと、現代だつて、バイリンガルの小説家は珍しくないでせうと指摘されるだらうか。されるでせうね。それで一応、その指摘は正しいとも認めます。では明治文士と現代作家は似たやうなものさと云へるかといふと、決してさう云へない。大きくまた決定的なちがひがあつて、それは漢文の素養である。谷崎にも漱石にも荷風にも百閒も幼少の頃に漢文の素讀の経験がある。日本語を讀める英國人が、ラテン語を學んだ経験も持つてゐると云へば想像し易いだらうか。

 今だつて漢文に詳しいひとはゐる。そこは認めるのに吝かではないが、それは學問として収めたひとで、金之助壮吉栄造少年の周囲にゐた、男子ノ嗜ミとして収めたひととは性質が少し異なると指摘しておきたい。これが江戸の遺風なのは改めて強調するまでもなく、令和の御代にその遺風が残つてゐるものか。更に和文を含めれば、我われの大先達は、文藝のトライリンガルであつたと云つていい。その文章が多少古めかしく感じられたとしても、讀むのにさほどの苦心を要しない背景には、さういふ教養があるからだと考へるのは妥当すぎる見立てではないかと思へる。

 いきなりかういふ話をしたのは、最近荷風の随筆を讀んでゐるからで、大正から昭和前期に書かれた、口語文文語文の両方が収録されてゐる。どちらもたいへん讀み易い。すりやあ漢語の形容は解らない箇所もあるけれど、そこはテクストの文脈で見当くらゐはつく。詰り苦心を要さないわけで、わたしは最初それをば己の讀解力ゆゑかと思つて、直ぐさまそんな阿房な話がある筈がないと考へを改めた。

 では何故すつきり頭に入るのか。

 そこで話は冒頭に戻り、キーンの云ふ“欧文脈の骨骼”…學者の指摘は谷崎についてだが、佛語を學んだ荷風にも、その骨骼はあると見ても誤りではない…が、無視出來ない程度に大きいからではないかと今さら気がついた。取上げる話題やその語り口が大事なのは認めるし、また当然でもあるのだが、それは前提…素材といふ見方もあり得る。そちらに立てば、讀み易いコンテクストを書けるかどうか…詰り素材の扱ひ方は、文章の出來を左右しかねない要素とも云へる。そしてさうするには文學上でも言語上でも、単線ではどうにも駄目で、複線を咀嚼し昇華しなくてはならない。併しそれではこちらが困る。わたしの場合、文學上でいへば日本文學のごく一部しか知らないし、言語上は現代日本語のみ(近畿方言と東京方言のバイリンガルと強弁したい気持ちは無くもないが、そんなことを云ひだしたら、八戸方言と奄美方言のバイリンガルに叱られるだらう)でもある。そのごく限られた範囲の中で、我と我が身をどうにかせねばならず、さういふ眞似が可能なものかどうか。夏目漱石森鷗外永井荷風内田百閒谷崎潤一郎から孫引きのやうに學ぶ方法はあるかも知れないが、それで人並みの文章を書けるまでに到るのかは、學究キーン先生も示しては呉れてゐない。