閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

308 スパゲッティ

 考へてみたら長いことスパゲッティを食べてゐない。マカロニも食べてゐないと思つたが、こつちはマカロニ・サラドで食べてゐるから、縁遠いのはスパゲッティといふことになる。家で用意するのに苦心があるわけでない。大鍋にたつぷりの水と塩をひと掴み。ここまではいいとして、十分からうでるのが面倒なだけである。饂飩や蕎麦には茹でたのを袋詰めにしたのがあるのに、スパゲッティでは見掛けない。食品会社の怠慢…あるのかも知れないが、見たことがないのだから無いのと同じである…ではないかと思へる。

 外で食べたいとは思ひにくい。何だか気障な感じがする。デートの食事で足を運びはしたが、どこの何が旨かつたか、さつぱり記憶にない。ホークに綺麗に巻きつけるとか、音を立てて啜らないとか、そちらに気を取られてゐたのだらう。マナーがどうかうより、女の子の前でいい恰好をしたかつたからで、まつたく不健全な態度だつた。お蔭で今もスパゲッティと聞くと、体のどこかが少し緊張する。だから外で食べないのかと云へば、どうもちがふ気もして、分析はするだけ無駄になりさうである。

 覚えてゐる最初のスパゲッティは母親が作つたひと皿で、それはミートソースでもナポリタンでも鱈子でもなく、サラド仕立てだつた。茹でたスパゲッティを水で締め、マヨネィーズで和へたやつ。薄切りの胡瓜、細く切つたハム、炒めたかうでたかした玉葱と人参が入つてゐたと思ふ。ホークで引つ掛けて盛大に啜つたら、口の周りがマヨネィーズだらけになつた。年寄りが同居してゐたからか、スパゲッティの茹で具合はアル・デンテより軟かだつたらうが、そもそもアル・デンテを知らなかつたから、不思議ではなく、不満でもなかつたし、あれは確かに旨かつた。かう書くと眞面目なスパゲッティ・ファンや伊太利人が眉を逆立てるかと思つたが、そこまではわたしの知つたことではない。